1.迫害の予告
・ロ−マ帝国は宗教に対して寛容であり、ロ−マの神々や皇帝の像さえ拝んでいれば、何を信じていようと、何を拝んでいようと自由だった。その中で、唯一神を信じるユダヤ教は地域宗教としてローマの神々への礼拝免除が認められていた。キリスト教は当初ユダヤ教の一派と見做されていたので、皇帝礼拝は免除されていたが、異なる宗教との認定後は規制が厳しくなり、さらにキリスト教徒が一切の偶像礼拝を拒んだので、危険集団と見做され迫害の要因となった。マタイはイエスの口を通して、自分たちの時代(紀元80年代)の迫害を福音書の中に書き込む。
−マタイ10:16−20「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである、また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときは言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」
・イエス時代の宣教活動においてはローマからの迫害はなかったが、ユダヤ教当局からの監視の中にあった。「狼の群れに羊を送り込む」というイエスの言葉に、それが表れている。創世記3章の蛇の知恵は悪知恵となっているが、ここでの蛇の知恵は良い知恵である。鳩の素直さは従順の象徴である。しかし、知恵も使い方次第では悪知恵となり、素直と従順だけでは騙されやすい。イエスが蛇と鳩を譬えに用いたのは、どちらにも偏らない、両者の長所を兼ね備えた分別をもてということである。パウロは言っている。
−ロ−マ15:17−19「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して。不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、私はあなたがたのことを喜んでいいます。なお、その上に善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」
・「私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」というイエスの事後預言は、使徒時代の迫害を反映している。これらはすべて迫害をうけたから生じた証しの機会であった。紀元100年頃には、「証しをする」(ギリシャ語=マルチュリア)が、「殉教する」の意味になっていく。
-ペトロはエルサレムの議会でイエスを証しした。(使徒4:5−31)
-ステファノはサンへドリンで説教し、殺された。(使徒7;1−53)
-パウロはフィリピの看守に主の言葉を語った。(使徒16:25-34)
-パウロは群衆に自分の回心を証しした。(使徒22:6−16)
-パウロは総督フエリクスの前でも証しした。(使徒24:10−21)
-パウロはアグリッパ王の前でも大胆な証しした。(使徒26:1−32)
2.最後まで耐え忍ぶ者は救われる
・イエスは迫害の預言に続いて、さらに厳しい覚悟を弟子達に迫る。迫害ゆえに肉親の関係が引き裂かれるだろうが覚悟せよと弟子達に迫った。
−マタイ10:21−23a「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい。」
・イエスの再臨の時まで(神の国が来るまで)、イスラエルの宣教が終わることはない。だから、その時まで、迫害に耐えてイスラエルの町々に教えを宣べ続けるようにと忍耐を教えている。「人の子」とはイエスのことであり、段落の後半は初代教会の信仰告白である。
−マタイ10:23b−25「はっきり言っておく。あなたがたが、イスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようにならば、それで十分である。家の主人がベルゼブル(サタン)と言われるのなら、その家族はもっとひどく言われるだろう。」
3.恐るべき者
・イエスは何者も恐れるなと、弟子達を励ます。覆われ隠されている神の真理は、時が来ればすべて明らかになる。そして真理は必ず我らを助ける。その時には今はこうして密かに語っていることを、屋根の上で大声に語る時である。どんな迫害者でも、肉体を殺すことができても、魂まで殺すことはできない。だから、どんな迫害者も恐れることはない。それより肉体も魂もすべてを滅ぼす力ある神を畏れるべきである。二羽の雀は一アサリオンで売られている(一デナリの十分の一、一デナリは当時の労働者の一日の日当であった)。そんなはかない雀の命さえ神は守っておられるのに、雀より勝っているあなたがたを、神が守らないはずはないではないか、あなたがたの髪の毛一本一本を数えるほど、あなたがたのすべてを神に知られている。その神があなたがたを守らないはずがない。だから、何も恐れることはないのだと、弟子達を励ましている。
−マタイ10:26−31「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことにできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
4.この物語をどう聞くか
・私たちはイエスの派遣命令を受けて宣教に出かける。イエスは12弟子を派遣されるにあたって言われた。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。イエスは「私たちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意される。どのような狼がこの日本にいるのだろうか。
・野村喬という牧師が「福音と世界」2009年3月号に、「伝道する心」と題して、次のように書く「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者なのだ。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい」。
・「しかし」と彼は続ける。「ミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。礼拝出席を義務付ける学校もあるが、成功していない。学生にとってキリスト教は社会的教養であって、自分の問題を切り開く宗教的な力ではない。また結婚式の半分以上はキリスト教式だが、司式者に求められるのは神学的訓練ではなく、セレモニーの進行役だ。結婚式の大半は説教の時間はなく、あっても数分だ。人々はキリスト教の形は欲しいが、中身はいらないといっている」。私たちの宣教の場である日本社会には、「福音に無関心」という狼がいるのではないか。
・第二次大戦時に生きたユダヤ人精神科医フランクルは、戦時中、強制収容所に収監され、3年間の収容所生活を耐えて生き残り、その体験を「夜と霧」としてまとめた。フランクルは語る「自分の人生にはどんな意味が与えられており、どんな使命が課せられているのか、それを見出し、実現するように毎日を生きる。どんな時にも人生には意味がある。この人生のどこかにあなたを必要とする何かが、あなたを必要とする誰かがいる」と。フランクルは語る「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生の方があなたに絶望することはない」。この人生を神と読み替えれば、「あなたがどれほど神に絶望しても、神があなたに絶望することはない」。この言葉は、表面的には科学信仰を装っていても、内心は不安におののいている現代日本人に届くのではないか。