1.エルサレム教会への献金を携えて
・パウロは困窮しているエルサレム教会への献金を集めるために、マケドニアに向かった。エルサレムへの旅には、アジア州とマケドニア州の教会の代表者も同行した。諸教会が助け合う、協力伝道の原点がここにある。
−使徒言行録20:1-4「騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。・・・同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった」。
・パウロたちは旅の途中にトロアスに立ち寄り、主日礼拝の時を持った。信徒たちは日曜日ごとに集まって、主の晩餐式を持ち、説教を聴いた。説教と礼典が当初から礼拝の中心であったことを示す資料がここにある。
−使徒言行録20:7「週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた」。
・当時、日曜日は休日ではなく、人々は昼間働き、夜に集って愛餐の時を持ち、宣教を聞いた。昼間の労働の疲れもあり、一人の若者が居眠りをし、三階の窓から落ち、礼拝は中断された。
−使徒言行録20:8-9「私たちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた」。
・パウロは若者の手当てをした後で、三階に戻り、礼拝を続けた。「騒ぐな」とパウロは言う。礼拝は中断されることはあっても、止めることはありえない。
−使徒言行録20:10-11「パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒ぐな。まだ生きている』。そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した」。
2.エペソ教会の人々への訣別説教
・一行はトロアスを出て、ミレトスに来た。パウロはそこにエペソ教会の長老たちを呼び、別れの時を持った。パウロはエルサレムに戻れば、投獄や迫害が起こることを予期している。ユダヤ教徒は、キリスト教会の伝道者になったパウロを裏切り者として、その命を狙っていた。それでも彼は霊に促されてエルサレムに戻る。
−使徒言行録20:22-24「私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。
・「霊に促されて」、バブテスマを受けたイエスが荒野に向かわれたのも、「霊に促されて」であった。神は、必要な時には、私たちに試練を与えられる。試練なしに、私たちは神に従う者となることは出来ないからだ。
−マタイ4:1「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。
・パウロは、残るエペソ教会の人々のことが気がかりだ。外部の敵以上に、内部から異端や異なる福音を述べ伝える者が来て、教会が混乱することを心配している。パウロの心配は杞憂ではない(参照:ガラテヤ1:6-9)。
−使徒言行録20:29-30「私が去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」。
・あなた方は監督者として、あなた方自身と群れ全体に気を配り、私が教えたことを守りなさいとパウロは説く。
−使徒言行録20:28-31「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によってご自分の者となさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです・・・私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。
・「私は去るが、神の言葉をあなた方に委ねる。私が群れに仕えたようにあなたがたも群れに仕えなさい」と、パウロは涙ながらに語った。説教者は言行一致でなければ、福音を語ることは出来ない。
−使徒言行録20:32-35「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。私は、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました」。