1.異邦人の招き
・前章でパウロは、キリストの十字架によって異邦人もまた、神の民として招かれたと述べた。
-エペソ2:11-16「あなたがたは以前には・・・イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。・・・今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。キリストは・・・御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・この奥義は、かつては人々に秘められていたが、今はキリストを通して、私たちに語られている。
-ヘブル1:1-2「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました」。
・奥義とは異邦人もまた、ユダヤ人と共に、アブラハムに為された約束の相続者とさせられたと言う奥義である。
-エペソ3:6「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。
・そして私はこの奥義をあなたがた異邦人に述べ伝えるために、使徒として召された。
-エペソ3:7-9「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者である私に与えられました。私は、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています」。
・奥義のもう一つは、召された異邦人が集められて教会を形成し、教会を通して神の業が為されるに至ったということだ。主体は教会の頭であるキリストであり、私たちはその身体を構成する手足として働く。
-エペソ3:10-12「神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神が私たちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」。
・その働きの結果、獄に捕らえられている私は、入獄を喜んでいる。私は皇帝の囚人ではなく、神の囚人なのだ。
-エペソ3:13「あなたがたのために私が受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」。
2.パウロの祈り
・パウロはエペソの教会のために祈る。最初の祈りは内なる人を強めたまえという祈りだ。
-エペソ3:16-17「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」。
・クリスチャンも世にある限り、肉から自由ではない。外なる人は依然として、彼の中にいる。クリスチャンとは赦された罪人であり、罪人である現実は変わっていない事を知るべきだ。だから教会に争いがあるのは当然だ。
-ローマ7:22-23「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。
・キリストを迎え、キリストの愛に触れる事を通して、私たちは次第に聖化されていく。二番目の祈りは人々がキリストの愛を知り、その愛で満たされる事を求める。教会が争い続けるとしたら、それは信仰の未熟さだ。
-エペソ3:18-19「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」。
・神の御心は人智を超えている、だから今はわからないことも信仰によって受け入れていく。
-エペソ3:20-21「私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」。
・キリストにある全ての家族が呼び集められ、共に神の家族を形成して行く(家族=パトウリアは父パテールから来る)。
-エペソ3:14-15「私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれる全ての者の名の元である父の前に祈ります」。