1.パウロのローマ教会への手紙
・紀元56年ごろ、パウロはコリントに滞在していた。彼はエルサレム教会への支援金を持って、エルサレムに帰り、その後にローマ訪問を希望していたパウロは、自己紹介をする目的で、この手紙を書いた。
−ローマ15:22-25「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。・・・しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」。
・パウロは自分を「キリストの僕、召されて使徒となった者」と紹介し、同じくローマ教会の人々を召されて信徒となった者として、手紙を書く。信徒もまた召命を受けて、教会に集う者とされたのだ。
−ローマ1:1-7「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから・・・
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」。
・パウロは言う「私は福音を恥とはしない」(1:16)。福音を恥とする状況、福音の宣教が悪評と嘲笑を招く状況があったことをパウロは認識している。
−?コリント1:23-24「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。
・それにもかかわらず、パウロは福音を誇る。何故ならば、そこには力があるからだ。パウロもまた自分の弱さを知った時に、神の力を知る者とさせられた。
−ローマ1:16「私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。
2.罪を認めないことの罪
・人間の最大の罪は、神を知りながら、神として崇めないことだとパウロは言う。
−ローマ1:18-19「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」
・外にあっては自然を通して、内にあっては良心を通して、神は自己を示された。人は神の存在を知っている。
−ローマ1:20-21「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」
・神の代わりに、彼らは偶像=自己を拝む。偶像とは自己の欲望の具体化であり、偶像礼拝とは自己礼拝だ。神は、彼らをその欲望のままに放置されることによって、彼らを裁かれる。
−ローマ1:22-25「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」
・その欲望は性的混乱として表れる。信仰の乱れは必ず性の乱れとして現れる。性が人間の欲望の根底にある。
−ローマ1:26-27「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」
・人間は神から離れることによって罪を罪として認識できなくなる。創世記におけるアダムとエバは自分の罪を認めることが出来ず、それを他人のせいにした。私たちが同じ罪を犯した時、私たちも神から離れている。
−創世記3:12-13「アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた『何ということをしたのか』。女は答えた『蛇がだましたので、食べてしまいました』」。
・自己の欲望が他者との関係の中で、思いわずらいと争いとなり、それが目に見える罪となっていく。私たちの苦しみの大半は人間関係の乱れから生じ、人間関係の乱れは、神との関係の乱れから来る。
−ローマ1:28「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」