1.悲しみが喜びに変わる
・イエスは「まもなくこの世を去る」と自分の死を予告された。弟子たちの心は不安と悲しみで満たされた。イエスはそのような弟子たちに、私は帰ってくると言われた。
−ヨハネ16:16「しばらくするとあなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」
・イエスが言われたのは、十字架で死んでも復活し、その後は霊として共にいるとの意味であるが、弟子たちには理解できない。まだ、十字架と復活、聖霊降臨の出来事を経験していないからだ。
−ヨハネ16:17-18「弟子たちのある者は互いに言った。『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになるとか、父のもとに行くとか言っておられるのは、何のことだろう』。また、言った。『しばらくすると、と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない』」
・イエスの死は、この世の権力者に捕らえられ、十字架で殺されることであるから、弟子たちにとっては絶望以外の何物でもない。弟子たちは泣き、不安は高まる。しかし、その悲しみは喜びに変わるとイエスは励まされる。
−ヨハネ16:20「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
・出産は女にとって最大の苦痛であるが、子供が生まれた後は、喜びで、もう苦痛を思い出さない。同じように、あなた方の苦しみも喜びに変わる。
−ヨハネ16:21-22「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
・十字架の悲しみは復活の喜びに変わった。その時、弟子たちはもう世を恐れない。
−使徒行伝2:36-37「『イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです』。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。」
2.イエスは既に世に勝っている
・イエスにとって生とは神のもとからこの世に来ることであり、死とは神のもとに帰ることだ。だから、死に対する恐れはない。
−ヨハネ16:28「私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
・弟子たちは、イエスが神のもとから来られたことは信じた。しかし、また天に帰られることは信じられない。彼らはイエスがこの地上に神の国を作られると信じてきたからだ。死後の命など彼らは信じられない。
−マルコ10:35-37「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが』・・・二人は言った。『栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」
・だから、イエスの死は彼らにとっては挫折であり、失望だ。彼らはイエスが捕らえられるとみんな逃げさった。逃さった彼らが集められるのはイエスの復活後であり、立ち上がるのは聖霊を受けてからだ。
−ヨハネ16:32「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、私をひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、私はひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」
・イエスは言われる。勇気を出せ、私は既に世に勝っている。世は私を殺しても父は私を復活させられる。そして私の復活を信じたあなた方の力が世を打ち負かす(イエスを殺したユダヤは滅び、ローマも滅んだ。その中で教会は広がって行った。正にイエスが言われた通りである)。
−ヨハネ16:33「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」
・平安とは悩みのないことではない。そのような平安は悩みが来ればすぐに崩れる。平安とは悩みの中で平静を保ち、その悩みが喜びに変えられることを信じることである。
−マタイ10:28-31「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」