1.姦淫の女
・イエスが神殿の境内で人々に教えておられた時、律法学者達が姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来た。
−ヨハネ8:4-5「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」
・当時のユダヤでは姦淫は犯罪であり、姦淫罪を犯した者は石打の刑に処せられることになっていた。律法学者達はイエスをわなにかけて訴える口実を得るために連れてきた。
−もし、イエスが「法に従って、その女を死刑にしなさい」と答えれば、愛と赦しを説かれたイエスの教えに反し、民衆の心はイエスから離れる。もし、イエスが「赦しなさい」と言えば、それは当時の刑法であるモーセ律法に反することになり、イエスは律法を守らないと非難される。
・イエスは黙って答えられなかった。律法学者達はイエスの沈黙を、答えに窮しているからだと思い、執拗にイエスに問い続けた。イエスは彼らに答えられた。
−ヨハネ8:7「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
・あなたたちはこの女をどう審くべきかと問い続けるが、その前に、あなた達がこの女を審く資格があるかをまず問いなさい。自分は姦淫の罪を犯したことはないと誓える者がまず、この女に石を投げなさい。
−マタイ5:28「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」
・この物語には四つの罪が見える。
−第一の罪は、女が犯した姦淫の罪、これは見える罪だ。
−第二の罪は、この場にいない姦淫をした男の罪、男は同じ行為をしたのに何故、裁かれないのか。
−第三の罪は、この出来事を見世物のように眺めている群集の罪、傍観者の罪だ。
−第四の罪は、イエスをわなにかけるために、女を道具として用いて恥じない律法学者の罪である。
・英語では罪にはCrimeとSinの二つがある。Crimeとは犯罪、外に出た罪だ。Sinとは内面のあふれる思い、怒りや妬みや貪りである。このSinこそがCrimeを生む根源であり、原罪=Original Sinと呼ばれるものだ。
−ヤコブ1:15「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」
2.自分の罪を知る時
・「罪なき者だけが石を投げよ」とのイエスの言葉に、誰もいなくなった。ユダヤ人は聖書の民であり、聖書は外に出た罪ばかりでなく、心の思いまでも問うものであり、自分は罪がない」とは言えないことを知っていた。−もし日本でこのような出来事が起きたら、人々は、石を投げるのではないか。日本人にとって罪とは外に現れた罪しかない。日本語にはSinに相当する言葉がなく、罪とはCrimeすなわち犯罪だ。
・パウロは人を愛するとは相手の罪を数えないことだと言う。
−第一コリント13:4-7「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
・『愛は恨みを抱かない』、抱く=ロギマゾイは、「数える、計算する、記録する」と言う意味で、忘れないために帳簿に記入するという商業用語から来る。愛は人の悪いところばかりを数えて帳簿や元帳に記入することをしない。愛は他人から受けた軽蔑や中傷や迫害等の悪を数えない。
−何故ならば、私たちも他者に対して同じことをする存在であることを知っている者であるから、他者の罪を数えない。数えないのではなく、数えることが出来ない。私たちが自分の罪を知った時、初めて人の罪を数えない存在、すなわち人を愛することが出来る存在になりうる。
・誰もいなくなった時、イエスは女に言われた。
−ヨハネ8:11「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。・・・イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
・ヨハネ8章が私たちに教えることは、審かれるべきは女を責めて恥じない律法学者であり、その律法学者とは私たち自身なのだと言うことだ。私たちは自分の過ちには寛容であり、他人の過ちは責める。しかし、私たちは「私もあなたを罪に定めない」というイエスの言葉を聞いた。私たちは罪を赦されたから、他者の罪を赦すのだ。そして相手を赦した時、相手も心を開いてくる。そこに平安が生まれる。