1.イエスの兄弟達の不信仰
・イエスの弟子たちの多くは、イエスにつまずいて去って行った。他方、エルサレムではイエスを異端として殺そうとする動きがあった。
―ヨハネ6:66−7:1「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。・・・その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」
・イエスの兄弟達はイエスにエルサレムに行って、しるしを行い、預言者として名を揚げよと勧告する。
―ヨハネ7:2-4「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』」
・仮庵祭には巡礼者がエルサレムに集まる。兄弟達はイエスに人に認められよう勧めた。しかし、人から拍手喝さいを受けることと神の御旨を行うことは異なる。兄弟達もイエスを神の子とは信じていなかった。
―ヨハネ7:5「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」
・イエスは言われた「私の時はまだ来ていない」と。
―ヨハネ7:6-8「イエスは言われた。『私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、私を憎んでいる。私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。私はこの祭りには上って行かない。まだ、私の時が来ていないからである。』」
2.時が満ちるのを待つ
・イエスはエルサレムに行くことを拒否された。まだイエスの時は来ておらず、危険を冒すことを避けようとされたからだ。イエスの時とはイエスが栄光を受ける時、十字架で死ぬ時であった。
―ヨハネ17:1「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』」
・キリスト者の栄光と世の人の栄光は異なる。世の人の栄光とは、この世の誉れを受けることだ。しかし、キリスト者の栄光とは神の誉れを受けることだ。
―ルカ6:24-26「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
・私たちが神に従っても、必ずしも世から受け容れられるとは限らない。どのように熱心に伝道しても、実りが少ないこともありうる。それはそれで良いではないか。
―イザヤ49:4「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。」
・すべての物事には時がある。時が来れば、私たちの働きは報われるであろう。たとえ、それが私たちの死後であっても、それはそれで良いではないか。
―ヨハネ黙示録6:9-11「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。」
・伝道とはやるべきことをやって、後は神に任せることだ。必要なものは与えてくださるのだから。
―マタイ10:11-14「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」