1.ベタニアでの香油の注ぎは4福音書全部に記されている。
・この出来事は初代教会にとって印象的な出来事だったため、4福音書全てに伝承として伝わっている。今日は福音書の記事を比較しながら、この物語を見る。
・イエスは日曜日にエルサレムに入場され、夜は近郊のベタニアに泊まられていた。過ぎ越し祭の二日前だった。ユダヤ当局はイエスを捕える準備をしていた。
―マルコ14:1-2「過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」
・ベタニアのシモンの家で食事をしておられたとき、一人の女が入って来てイエスに香油を塗った。女はナルドの香油をイエスに塗ったが、それは非常に高価であった(300デナリオン、労働者の賃金の1年分)。通常は数滴をたらす。女は壷を壊して、全部使ってしまった)。
・ナルドはヒマラヤで採れる甘松の根から造られる香料で、裕福な女性たちは香水として愛用していた。その香料をオリーブ油に混ぜたものが香油で、王や祭司の就任式、葬儀用(遺体や衣服に塗る)としても使用された。
・ルカに依れば、女は泣きながらイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭き、接吻して香油を塗った。以前イエスに病を癒された女性が、イエスがベタニアに居られる事を聞き、香油を持参したものと思われる。
―ヨハネ12:3「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」
2.人々は女の行為を愚かとして非難した。
・マタイに依れば弟子たちは女を批判し、その批判は女の行為を容認されたイエスにも向かっている。彼らは評論家、批評家であり、行動しない。ルカに依ればイエスはこのような態度を批判されている。
―ルカ7:44−46「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。』」
・女は後先を考えないで行為している、愚かである。しかし、イエスはこのひたむきの行為を喜ばれた。十字架の時が接近し、イエスの心は騒いでいる。女のひたむきな行為はイエスを慰めた。女はイエスの死が近いことは知らない。感謝の思いを表したかった。そのことがイエスの死(メシヤとしての戴冠、葬り)の準備になる。
―マルコ14:8「この人は出来る限りの事をした。つまり前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」
・精一杯を捧げた女の行為は、レプタ二つを捧げたやもめの行為と共通している。やもめもまた愚かだった。信仰の行為は信じないものから見れば愚かである。
―マルコ12:43「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
3.イエスに出会って変えられたものは、喜びにあふれて応答する。
・この女は喜びと感謝を行為で示さずにはいられなかった。信仰は応答としての行為を伴う。男はひたむきな愚かな行為が出来ない。教会を支えるのは女性である。イエスの十字架の時、その場にいたのは女性だけだった。
―マルコ14:50「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
―マルコ15:40「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。」
―マルコ16:1「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」
・何故、女性は逃げなかったのか、社会の偏見と重圧の中で多く苦しみ、その結果多く赦されたからである。よい行為をすれば救われるのではない。救われたからよい行為をする。これは信仰の行為である。
―ルカ7:47-48「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」