1.ろばの子に乗って入城されるイエス
・エルサレムに近づいた時、イエスは二人の弟子を派遣して、ろばの子を連れてくるように命じられた。ろばは荷を運ぶために、村で飼われ、旅人に貸し出されていた。
―マタイ21:2-3「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
・イエスは馬ではなく、ろばに乗ってエルサレムに入城された。イエスは旧約聖書の予言を通して、ご自分の使命を表そうとされた。
―ゼカリヤ9:9-10「 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。」
・征服者は馬に乗って入城する。馬は力(軍事力)の象徴だ。しかし、イエスは弱さの象徴であるろばに乗って入城された。彼は裁き人ではなく、憐れむものとして、王位につかれる。
―詩篇147:10-11「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」
2.イエスを歓呼して迎える群衆
・群集は名高い預言者、メシヤと評判の高いものが来たとして、歓呼して迎えた。日曜日のことだ。
―マタイ21:8-9「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」
・「ホサナ」とは「救いたまえ」の意であり、「上着を敷く」とは自分の第一の物をも惜しまないことを示す。群集は最大級の歓呼でイエスを迎えたが、同じ群集が5日後の金曜日にはイエスを殺せと怒号する。
―マタイ27:23「群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。」
・群集はユダヤをローマから解放する救い主を求めたが、イエスの説かれた神の国は支配することではなく、仕える事から来る。民衆はイエスを政治的解放者として期待した分、失望してイエスの十字架を求めた。
―マタイ20:25-26「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
3.柔和なものは幸いだ。
・平和とは戦争がない状態ではなく、馬を不要にし、ろばが尊ばれる世界だと聖書は言う。聖書の言う平和とは「狼と子羊が、獅子と牛が共生する世界」だ。
―イザヤ65:25「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」
・その平和は馬(自分の力)によりもたらされるものではなく、ろば(神の力)によりもたらされるものだ。
―フランチェスカの祈り「主よ、私をあなたの平和の器にしてください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、闇の覆うところに光をもたらすものとしてください」
・自分の弱さを認めて神により頼む時、平安が与えられる。クリスチャンは自分の弱さを知るから強いのだ。
―?コリント12:7-9「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」