1.山上にて(17:1-8)
・イエスは三人の弟子を連れて祈るために高い山に登られた。その山上で弟子たちはイエスの変貌を目撃する。
―マタイ17:1-2「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。」
・弟子たちはそこにモーセとエリヤが神の使者として現れてイエスと語り合うのを見た。モーセは律法、エリヤは預言者を代表する。即ち、旧約聖書の成就としてイエスが来られたとの教会の信仰告白がここにある。
―ルカ9:30-31「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。」
・ここに神の子、栄光のイエスが示されている。ペテロは栄光のイエスが何時までもおられるように期待した。
―マタイ17:4「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
・神の子としての顕現が山上での変貌であり、人の子としての顕現がゲツセマネであった。栄光の神の子が人の子として恐れおののかれる様を三人の弟子たちは同じく目撃した。「神にして人」と教父たちは表現した。
―マルコ14:32-34「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた『私が祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』」。
2.山を降りる(17:9-13)
・一同が山を降りる時、イエスはこの事を誰にも話してはいけないと言われた。
―マタイ17:9「一同が山を下って来るとき、イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼らに命じられた。」
・弟子たちは、エリヤは既にきたのかと訊ねた。エリヤがメシヤに先立って来る事は預言されていた。
―マラキ4:5-6「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
・イエスはバプテスマのヨハネこそエリヤだったのに、人々はこれを認めなかったのだと言われた。
―マタイ17:11-13「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。・・・エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。」
3.この出来事をどう理解するか
・神秘的・超越的な信仰体験はありうる。しかし、イエスはそれを吹聴するなと言われる。それは個人の体験として大事にすべきことである(パウロも自己の召命体験を一言も語らない)。
―?ペテロ1:16-18「私達の主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、私達は、巧みな作り話を用いることはしなかった。私達が、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神から誉れと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである『これは私の愛する子、私の心にかなう者である』。私達もイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。」
・神秘的・超越的な体験をした3人の弟子たちもイエスの十字架の時には逃げ出している。神秘的・超越的な体験が人を信仰者にするのではなく、イエスの十字架を自分の出来事として受け取った時、人は信仰者となる。
・人間の宗教は現世から見返りを求めるか(創価学会、立正佼成会等)、現世から離脱する(幸福の科学、オーム等)かのどちらかであるが、聖書の信仰は根本から異なり、迫害する現世のために仕えよと言われている。
―ヨハネ17:14-19「わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」
・私たちも山に上り、神の言葉をいただくことは必要だ。私たちは「天からの声を聞いて地で生きる」のだ。