1.しるしと信仰
・イエスは大勢の人の病をいやされたが、そのことを言いふらさないように命じられた。
―マタイ12:15-16「イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。」
・それは救いはしるし(奇跡)によって来るものではなく、ただ罪を認め悔い改めることによってしか来ないことを人々に知らせるためであった。
―マタイ12:39-41「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」
・人が変えられるのはしるしを見た為ではなく、神が自分のために行為してくれたことを知るときである。
―?コリント1:22-23「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」
・私たちは十字架以外のしるしを求めてはいけない。十字架にこそ神の愛が示されている。
―?ヨハネ3:16「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」
・しるしを求めるのはご利益宗教以外の何ものでもない。人々はあくまでもしるしを求めたが、イエスは彼らを信用されなかった(イエスをメシヤとして迎えた同じ群衆が、やがてイエスの十字架を要求するようになる)。
―ヨハネ2:23-25「過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。・・・それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」
2.イエスを受け入れないものは悪霊に支配される。
・人々はイエスの業を見て、この人こそダビデの子、メシヤではないかと言い始める。しかし、パリサイ人たちはイエスの上に神の業が働いているのを認めず、イエスはサタンの手先だと非難する。
―マタイ12:24「パリサイ人たちは、これを聞いて言った、『この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ』」。
・イエスは、自分をあくまでも正しいとするパリサイ人を批判された。自分の罪を認めない人には救いは来ない。
―マタイ12:31-32「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」
・罪とは律法に違反することではなく、神が人間を愛し、許されていることを認めない(=聖霊を汚す)ことである。私たちが見えると思っている限り、そこに罪がある。
―ヨハネ9:41「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
・心にキリストを受け入れないものは悪霊の支配を受ける(マタイ12:43-45)、人間は罪に支配されるか、霊に支配されるかのどちらかなのだ。
―ローマ6:16「あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」
・イエスの兄弟姉妹もイエスを救い主として受け入れなかった。肉の目が妨げていたのである。本当の兄弟姉妹とはイエスを受け入れる人たちの間に成立する。
―マタイ12:48-50「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
・福音を知る時初めて、私たちは血や民族と言った属性から解放される。それが教会の交わりである。
―ガラテヤ3:26-29「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」