1.中風の人のいやし
・マタイの記事はマルコ福音書・ルカ福音書と内容がやや異なる。マルコ・ルカにおいては、中風のものを連れてきた4人の人たちの信仰が強調されている。マタイにおいては、4人の信仰よりも、イエスが人の子を赦す権威があることを示すことが物語りの中心である。
―マタイ9:2「すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ』といわれた。」
―マルコ2:3-5「すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」
―ルカ5:18-20「その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。イエスは彼らの信仰を見て、『人よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。
・律法学者は「あなたの罪は赦された」とのイエスの言葉を、神を冒涜する言葉だと反発した。罪を赦す権威は神のみにあると考えたためである。
―マルコ2:6-7「ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、『この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか』」
・イエスが処刑された理由の一つも神への冒涜である。律法学者たちにとって、イエスの発言は許し難かった。
―マタイ26:64-65「イエスは彼に言われた、『あなたの言うとおりである。・・・あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、『彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。』」
2.この物語は私たちに何を伝えるのか
・イエスはこの人を見て、励まし、罪の赦しを宣言し、最期に体をいやされた。
―マタイ9:2「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」9:6「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」
・最初に言われたのは励ましであった。他のいやしの物語においてもそうである。
―マルコ10:51「イエスは彼にむかって言われた、『わたしに何をしてほしいのか』。その盲人は言った、『先生、見えるようになることです』」
―ヨハネ5:5-6「三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた。」
・次に言われたのは罪の赦しである。根本的ないやしは体や心のいやしではなく、罪からの解放だからである。
―ルカ4:18-19「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
・罪の赦しが心身のいやしをもたらす。教会の福音宣教において、人々を解放するのは御言葉の力である。
―イザヤ55:10-11「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」
・この御言葉こそ人を罪から解放する力を持つ。床に担がれて来た人こそ、私たちそのものなのだ。その人が起き上がって床を担いで行くように、私たちもイエスに出会って主体的に生きるものとなった。
―マタイ9:6-7「『人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために』と言い、中風の者に向かって『起きよ、床を取りあげて家に帰れ』と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。