1.モルデカイを殺そうとするハマン
・王は、かつてハマンを同僚大臣の誰よりも高い地位、宰相(首相)に引き立て、王宮の役人たちに敬礼するよう命じた。しかし、モルデカイだけはハマンに敬礼せず、同僚の役人たちから再三忠告されても敬礼せず、来る日も来る日も敬礼しなかった。業を煮やしたハマンは、モルデカイを極刑に処そうとして、絞首刑の柱を立て、王の認可を得ようとした。ちょうどそのとき、王はモルデカイを表彰しょうとしていた。ハマンはそれに気付かず、こともあろうに、自分勝手な思い違いから、憎むべきモルデカイに、自らが欲した栄誉をそっくり持っていかれてしまう。すべてが終わり、ハマンは耐えがたい屈辱感に身も心も苛まれる。6章でモルデカイとハマンの立場が逆転する。著者はそこに神の働きを見る。
−エステル6:1-3「その夜、王は眠れないので、宮廷日誌をもって来させ、読み上げさせた。そこには、王の私室の番人である二人の宦官、ビグタンとテレシュが王を倒そうと謀り、これをモルデカイが知らせたという記録があった。そこで王は言った。『このために、どのような栄誉と称賛をモルデカイは受けたのか。』そばに仕える侍従たちは答えた。『何も受けませんでした』」。
・「その夜」とは、不敬不快のモルデカイを処刑する柱をたてるよう、妻ゼレシュと親友から入れ知恵されたハマンが、その柱を立て翌朝を待つ、その夜のことである。その夜は何という巡り合わせか、王は眠れなかったのである。王は眠れぬまま、侍従に宮廷日誌を読ませると、モルデカイが王の命を救った記録が読まれ、王は彼に褒賞を与えていなかった手落ちに気付く。モルデカイ処刑の許可を得ようするハマンと、モルデカイに褒賞を与えようとする王が共に待ったその朝、モルデカイは何も知らず王宮に入る。
−エステル6:4-6「王は言った。『庭に誰がいるのか』。ハマンが王宮の外庭に来ていた。準備していた柱にモルデカイをつるすことを、王に進言するためである。侍従たちが『ハマンが庭に来ています』と言うと、王が『ここへ通せ』と言った。ハマンが進み出ると、王は、『王が名誉を与えることを望む者には、何をすればよいのだろうか』と尋ねた。ハマンは、王が栄誉を与える者は自分以外にあるまいと心に思った」。
2.形勢逆転、苦境に立つモルデカイ
・モルデカイを表彰する手筈を思いつかなかった王は、モルデカイ処刑の許可を申請に来たハマンに、モルデカイ表彰の手筈を提案させる。ハマンは自惚れの強い男であったから、自分が表彰されると勝手に思いこみ、自分好みの豪勢な表彰式を提案をする。王がモルデカイの名を伏せたままだったことがハマンには不運だった。
−エステル6:7-9「王にこう言った。『王が栄誉を与えることをお望みでしたら、王のお召しになる服を持って来させ、お乗りになる馬、頭に王冠を着けた馬を引いて来させるとよいでしょう。それを貴族で、王の高官である者にゆだね、栄誉を与えることをお望みになる人にその服を着けさせ、都の広場でその人を馬に乗せ、その前で、「王が栄誉を与えることを望む者には、このようになされる」と、触れさせられてはいかがでしょうか』」。
・ハマンの提案は豪勢だった。「王がお召しになる服」は、王が実際に身に着けた服である。それを家来に着せるのは最高の名誉である。「お乗りになる馬」に乗せられるも、同じく最高の名誉である。「頭に王冠を着けた馬」は儀礼の時、王が乗る馬の儀装である。それらをすべて整えたうえで、「町の広場」で民衆の前で受ける栄誉礼は、最高の名誉である。
−エステル6:10-11「王はそこでハマンに言った。『それでは早速、わたしの着物と馬を取り、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイに、お前が今言った通りにしなさい。お前が今言ったことは何一つおろそかにしてはならない。』ハマンは王の服と馬を受け取り、その服をモルデカイに着せ、都の広場で彼を王の馬に乗せ、その前で、『王が栄誉を与えることを望む者には、このようなことがなされると』と触れ回った」。
・何という皮肉か、ハマンに処刑されようとしたユダヤ人モルデカイに、王は最高の栄誉を与え、その準備と介添え役をハマンに命じたのである。ハマンにとって、これほど耐えがたい屈辱はなかったのである。しかし、王命であるからハマンは従うほかなかった。栄誉礼の後、モルデカイは王宮の平常勤務に戻った。モルデカイの日常が栄誉礼で変るのはこれからであろう。一方のハマンは屈辱と敗北感にまみれ、頭をかかえて帰宅した。ハマンが妻と友人に事の経緯を話すと、彼らもこの事件を通して敗北感をあじわう。ユダヤ人の成功を各地で見てきた彼らは、ユダヤ人には勝てないことを、改めて認めるほかなかった。ハマンと家族の会話はまだ続いていたが、エステルの酒宴の時間が迫り、宦官たちがやって来て、酒宴に出席するようハマンを促した。
−エステル6:12-14「モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。彼は一部始終を妻セレジュと親しい友達に話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。『モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです』。彼らがこう言っているところへ、王の宦官たちがやって来て、エステルの催す酒宴に出るよう、ハマンをせきたてた」。
・ハマンは王に引き立てられ、首相にまで昇りつめた有能な人物だったのに、ユダヤ人全滅を企む等その性格が残忍であったゆえに、次の7章では、自ら立てた柱にかけられ哀れな最後を遂げることになる。モルデカイは王を暗殺から守った功績を吹聴しないほど無欲であったゆえに、この上ない好機に王に認められ、栄誉礼を受けることになる。モルデカイとハマン、彼らの明暗を分けたのは、彼ら自身の人柄でもあった。
*エステル記6章参考資料 エステル記には何故神名が出ないのか
・ヘブル語聖書の第3部「諸書」のうち,メギロース(巻物)と呼ばれる5つの書がある.ユダヤ教の祭に特に朗読される書で,エステル記はこのメギロースに属し,プリムの祭に朗読された。この書は,他の旧約各書には見られない幾つかの特色を持っている.雅歌と同様に神名が一度も出て来ない.ルツ記と並んで,女性の名前が書名になっている.モーセの律法にない祭について述べている.新約聖書には引用されていない.死海写本の中には本書は断片さえも見当らないとされる.この中で特に,神名が用いられていない点が問題とされる.
・人間の政治的,社会的,個人的な活動の中に,神が摂理的に働かれて,神のご計画が必ず実現していくことを,より明確に示そうとしたためと考えるのが正しいであろう.そのために神の民の祈りとか礼拝のような宗教的な活動をさえ明記しないで,神を歴史の背後に秘した記述にしている.それによって,人の通常体験の次元で,偶然と見える出来事の中に真の神が,聖旨を行われると知る.目に見える神の超自然的な活動,奇蹟のみわざを通してだけでなく,日常の生活にあって,神が働いておられるという事実を確認するように導かれる.
・ユダヤ教では,モーセの律法に規定されていないプリムの祭が命じられていることから,正典性が問題になったが,それにもかかわらず早くからこれを正典と認めていた(ヨセフス『アピオンへの反論』1:38‐40).ただし,本書を正典に含めるべきかとの議論は後々まで行われていたが,これを除外する決定はなかった.ヘブル語本文は比較的良好に保存されている.本書には,ギリシャ語エステル記があり,カトリック教会では第2正典としている.内容からそれは,神名が欠如しているなどの宗教的要素を補う意図で書かれたものであり,ユダヤ教も,初期のキリスト教会も,プロテスタント教会も、ギリシャ語エステル記は正典として受け入れていない。