1.見張人の役割
・エゼキエルは妻の死を契機にしばらく語ることを禁じられる(24:25-27)。エルサレム陥落は時間の問題であり、悔い改めを求めてももう無駄だからだ。そのエゼキエルの元に「都が陥落した」との知らせが届き、エゼキエルは再び語り始める。この33章からエゼキエル書は最後の場面に入る。
−エゼキエル33:21-22「我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者が私のもとに来て言った『都は陥落した』と。その逃れた者が来る前の晩、主の手が私の上に置かれ、翌朝、彼が私のもとに来る前に、主は私の口を開かれた。口が開かれて、私はもはや黙していなかった」。
・エゼキエルは再び語り始めた。預言者が再び語るのは、神が民を見捨てていないしるしだ。先に預言者は「裁きと滅び」を語った。悔い改めて救済に導くためだ。今度の預言者は「救済と回復」を語る。最初に彼が語ったのは見張人の務めだ。見張人(預言者)は城壁の上にたって敵が来たらそれを知らせる役割を持つ。その役割を今果たせと。
−エゼキエル33:2-6「私がある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある・・・しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任を私は見張りの手に求める』。
・同じ言葉が3:16-21にある。先には「滅ぼされないように、悔い改めて立ち帰れ」との命令だったが、エルサレムが陥落した今は、「生きるために悔い改めよ」との警告が預言者から為される。
−エゼキエル33:8-9「私が悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言う時、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任を私はお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う」。
・その角笛を聞いて、「私たちは罪を犯したのだから救われるわけがない」と嘆く民に、あなたは伝えなければいけない「その罪は私が赦すゆえに立ち帰れ、あなたの死を望まない、死ぬな」と。
−エゼキエル33:10-11「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい『私は生きている、と主なる神は言われる。私は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか』」。
2.裁きから救いへ
・12節から「正しい人でも罪を犯せば責任は問われ、悪人でも悔い改めれば生きる」と語られる。ここで問われるのは過去にどれだけの善行を積んだかではなく、現在どう生きているかである。信仰は善と悪の収支関係ではない。
−エゼキエル33:12-19「正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない・・・それなのに、あなたの同胞は言っている『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる」。
・エルサレムの残留民たちは殺された人々、捕囚とされた人々の土地を奪って、「これは我々のものだ」と主張している。しかし主は言われる「彼らは剣に倒れ、飢えや疫病で死ぬだろう」と。エゼキエルは残留者に期待していない。
−エゼキエル33:24-26「イスラエルの土地のこれらの廃虚に住む者は言う『アブラハムはただ一人の時、この土地を所有していた。我々の数は多い。我々にこの土地は所有として与えられている』・・・お前たちは血のついたまま肉を食べ、偶像に向かって目を上げ、人の血を流している。それでもお前たちはこの土地を所有できるのか。お前たちは剣を頼みとし、忌まわしいことを行い、おのおの隣人の妻を犯している。それでもお前たちはこの土地を所有できるのか」。
・他方、捕囚地にいる者たちにもエゼキエルは期待できなかった。彼らはエルサレム滅亡を知り、以前よりは熱心にエゼキエルの言葉を聞く。しかし彼らが求めるのは目先の利害得失であり、御心ではなかった。
−エゼキエル33:30-33「あなたの同胞は城壁の傍らや家の戸口に立ってあなたのことを語り、互いに語り合っている『さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか』と。そして、彼らはあなたのもとに来る。民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている・・・彼らはあなたの語ることを聞くが、それを行いはしない。しかし、そのことが起こるとき、見よ、それは近づいている、彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる」。
*エゼキエル書33章参考資料、「見張りの務めとは何か」〜「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」から
・わたくしどもは,1966年10月,第14回教団総会において,教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは,これを主題として,教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え,また祈りました。まさにこのときにおいてこそ,わたくしどもは,教団成立とそれにつづく戦時下に,教団の名において犯したあやまちを,今一度改めて白覚し,主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
・わが国の政府は,そのころ戦争遂行の必要から,諸宗教団体に統合と戦争への協力を,国策として要請いたしました。明治初年の宣教開始以来,わが国のキリスト者の多くは,かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが,当時の教会の指導者たちは,この政府の要請を契機に教会合同にふみきり,ここに教団が成立いたしました。わたくしどもはこの教団の成立と存続において,わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え,深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。
・「世の光」「地の塩」である教会は,あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ,キリスト者の良心的判断によって,祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは,教団の名において,あの戦争を是認し,支持し,その勝利のために祈り努めることを,内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき,わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって,この罪を懺悔し,主にゆるしを願うとともに,世界の,ことにアジアの諸国,そこにある教会と兄弟姉妹,またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
・終戦から20年余を経過し,わたくしどもの愛する祖国は,今日多くの問題をはらむ世界の中にあって,ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは,教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく,日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように,主の助けと導きを祈り求めつつ,明日にむかっての決意を表明するものであります。
1967年 3月26日復活主日
日本基督教団 総会議長 鈴木正久