1.イスラエルの背信の歴史
・エゼキエル20章はイスラエルの背信の歴史を指し示し、裁きが不可避であることを告げる。捕囚から7年が経過した前591年頃、イスラエルはバビロニアの支配から逃れようとエジプトに接近し、バビロニア・イスラエル間の政治的緊張は高まった。バビロンの捕囚民も心穏やかではなく、エルサレム救済の可能性を預言者エゼキエルに聞くために集まった。
-エゼキエル20:1「第七年の五月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老たち数人が、主の御心を問うために来て、私の前に座った」。
・エゼキエルは答える「エルサレムを救って欲しいというあなたがたの願いに、主は答えられない。イスラエルの犯した罪はあまりにも重い。イスラエルは裁きを逃れることはできない」と。そしてイスラエルの背信の歴史が語られる。
-エゼキエル20:5-9「私がイスラエルを選んだ日に・・・私は彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地・・・に導くと言った。私はまた、彼らに言った『・・・エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。私はお前たちの神、主である』と。しかし、彼らは私に逆らい、私に聞き従おうとはしなかった・・・私は言った『私は憤りを彼らの上に注ぎ、エジプトの地で私の怒りを浴びせる』と。しかし、私はわが名のために、彼らがその中に住んでいる諸国民の目の前では、わが名を汚すことがないようにした。その諸国民の目の前で、私はイスラエルをエジプトの地から導き出して、私を示したのである」。
・約束の地を目指す途上においても、民はかたくなであった。主は彼らを滅ぼそうとされたが、「わが名を汚さないために」、それを耐え、民を約束の地に導かれた。
-エゼキエル20:10-17「私は、彼らをエジプトの地から連れ出し、荒れ野に導いた。そして、彼らに私の掟を与え、私の裁きを示した・・・しかし、イスラエルの家は荒れ野で私に背き・・・私の掟に歩まず、私の裁きを退け、更に、私の安息日を甚だしく汚した。それゆえ、私は荒れ野で、憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを滅ぼし尽くそうとした。しかし、わが名のために、私がイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前で、わが名を汚すことがないようにした」。
・親だけではなく、子供たちもかたくなだった。彼らもまた主の戒めに従おうとはしなかった。
-エゼキエル20:18-21「私は、荒れ野で彼らの子供たちに語った『お前たちの父祖の掟に従って歩んではならない。彼らの裁きを守ってはならない。また、彼らの偶像で自らを汚してはならない・・・お前たちは、私の掟に従って歩み、私の裁きを守り行い、私の安息日を聖別して、私とお前たちとの間のしるしとし、私がお前たちの神、主であることを知れ』と。しかし、子供たちも私に背き・・・私の掟に歩まず、私の裁きを守り行わず、私の安息日を汚した」。
2.滅びを通しての救い
・罪の告発は続く。民は約束の地に入った後も罪を犯し続けた。それはもはや父祖の罪ではない。あなたがたの内にある根源的な罪がそうさせるのだ。あなたたちの本質は悪なのだとエゼキエルは捕囚の長老たちに問う。
-エゼキエル20:30-31「お前たちは父祖の歩みに従って自らを汚し、彼らの憎むべき偶像と姦淫を行ってきた。また、自分の子供を献げ物として火の中を通らせ、すべての偶像によって今日に至るまで自らを汚している。それなのに、イスラエルの家よ、私はお前たちの求めに応じられようか」。
・悪であれば滅ぼされて当然だ。それなのに主はあなたがたを残された。「あなたがたはイスラエル再興という使命を与えられている。早く故郷に戻りたい、故郷エルサレムが無事であって欲しいという目先の事柄に振り回されるな。主のふるい分けに耐えられる存在になれ」とエゼキエルは語る。
-エゼキエル20:34-38「私はお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める。私はお前たちを、諸国の民の荒れ野に導き、顔と顔を合わせてお前たちを裁く。お前たちの父祖をエジプトの国の荒れ野で裁いたように裁く・・・私は、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。私はお前たちの中から、私に逆らい、背く者を分離する」。
・「牧者の杖の下を通らせる」、人はふるい分けて救われる。裁きや苦難は楽しいものではない。しかしそれには積極的な意味がある。今回の大震災を通して、私たちは「科学技術を通して自然を支配することはできない。私たちは自然の管理を委ねられている」だけであることを知った。その管理を怠れば大地震や大津波によって生存さえ脅かされる。
-?コリント10:11「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面している私たちに警告するためなのです」。
・物事をぎりぎりまで考え抜く力は、極限的な状況に直面して初めて生まれる。その極限を避ける安易な解決や救済は決して救いではない。捕囚の民はエルサレム滅亡後に真の救済を求めるようになり、彼らの信仰が創世記1章の天地創造物語をもたらした。「闇の中に光あれという言葉が響くと光があった」、その記事に捕囚民の信仰がある。
-創世記1:1-3「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」。
*エゼキエル20章参考資料〜創世記1章はバビロン捕囚民によって書かれた
(2003.11.23横浜指路教会・藤掛順一牧師説教から要約)
・創世記1章の天地創造物語が書かれたのは、紀元前6世紀ごろと考えられています。南王国ユダが紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれてしまう、紀元前6世紀とはまさにユダ王国滅亡とバビロン捕囚の時代です。預言者エレミヤはこのユダの滅亡とバビロン捕囚のただ中を生きた人でした。主の激しい怒りによる混沌は、この国の滅亡と、人々が故郷から引き離され、敵の地へと連れ去られてしまうという悲惨な状況を語っているのです。
・エレミヤを始めとする預言者たちは、このような滅亡の苦しみが自分たちを襲ったのは、この民が代々に亘って犯してきた罪への神の怒りと審きによるのだと語りました。エジプトで奴隷とされていたこの民を救い出し、乳と蜜の流れる約束の地カナンを与えて下さり、国を築くことを許し、守り導いてきて下さった主なる神を捨てて、他の神々、五穀豊穣をもたらすとされる偶像の神々、人間の欲望や願望の投影に過ぎないご利益の神々の方に心を向け、それらを拝むようになった、そのイスラエルの民の裏切り、忘恩の罪が、このような悲惨な国の滅亡と捕囚をもたらしたのです。
・創世記1章は、エレミヤが見つめているこの現実の中で書かれました。2節「地は混沌であった」において描かれているのは、国の滅亡とバビロン捕囚という現実なのです。創世記の著者が見つめ描いているのは、大昔に神がこの世界を創られた時、この世界はどんなところだったか、ということではないのです。彼が見つめているのは、今の自分たちの、目の前の現実なのです。今自分たちの前にある世界、自分たちの置かれている現実が、混沌であり、形なく、虚しく、闇に覆われた底知れぬ淵が口をあけ、自分たちを飲み込もうとしている。ものすごい暴風が吹き荒れ、山のような波が襲いかかってきている、そういう現実が、今、自分たちの目の前にある。
・聖書は、昔この世界はどうであったかということに興味を持っていないし、語ってもいません。聖書が語っているのは、私たちが今生きているこの世界、この現実、それがどういうものなのか、そこに何が起っており、これから何が起るのかという、極めて切実な問いを投げかけているのです。その問いに対して創世記1章の著者に与えられた答えが、「初めに、神は天地を創造された」という言葉だったのです。滅亡と捕囚の現実の中で、混乱と空虚に捕えられ、真っ暗な深淵に飲み込まれていくような、暴風に吹きまくられているようなこの世界だけれども、しかしそれは神が創造された、神のご意思によって創られたものだ。この世界が存在し、私たちが生きているのは、神のみ心とみ力によるのだ、それが1節「初めに、神は天地を創造された」の意味です。そしてそれゆえに、その創造のみ業は、3節以下のように展開されていくのです。「神は言われた『光あれ』。こうして、光があった」。闇に覆われた深淵、暴風吹きすさぶ嵐の中に、神の「光あれ」というみ言葉が響き渡るとそこには、光が生まれる。闇の中に輝き、闇を切り裂く光が神によって創られ、この世界に与えられるのです。
・「神は光を見て、良しとされた」(1:4)とあります。混沌の闇の中に輝いた光を、神は「良し」として下さった、光が闇を追放し、荒涼とした世界に明るさが与えられることを神は肯定して下さった、それで良いと言って下さったのです。闇に支配された混沌、人間の罪とそのもたらす悲惨、神の怒りと審きの現実です。しかし神は、そこに光を生じさせ、それを良しとして下さった。それは、私たちの罪によってもたらされたこの悲惨な現実、神の怒りと審きによって滅び去るしかない現実を、神が変えて下さる、私たちの罪を赦して、新しく生かして下さるという恵みの現れです。神の良しとされるみ心は今や、私たちの滅びにあるのではない。私たちが赦されて新しく生きることをこそ神は良しとし、望んでおられる。「神は光を見て、良しとされた」とはそういうことなのです。
・そして神は、「光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」。昼と夜とが交互に訪れる、そういう一日が整えられたのです。それは、神様が、混沌であったこの世界に、秩序を与えて下さる、その第一歩です。秩序を与える、それは、この世界を、私たちが生きることができる所として整えて下さるということです。闇に支配された混沌の中では私たちは生きることができません。私たちは自分の罪によって、自分自身が生きることのできない世界を作り出してしまうのです。神がその罪を赦して、世界に秩序を与え、私たちが生きることができるようにして下さる、光の創造から、そういう神の恵みのみ業が始まっているのです。創世記の著者は、国の滅亡とバビロン捕囚の絶望的な苦しみの中で、ここに、希望を見いだしたのです。