1.神の護りの中にある幸いを歌う詩人
・詩編91編は信仰者に対する主の護りを賛美する。「主は私の避けどころ、砦」と詩人は歌う。「神はわがやぐら、わが強き盾」と歌うルター(新生讃美歌538番)の詩も詩篇91編に触発されたのだろうか。
−詩編91:1-2「 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。主に申し上げよ『私の避けどころ、砦、私の神、依り頼む方』と」。
・パレスチナでは、昼は焼けるような太陽が照りつけ(昼、飛んで来る矢)、夜は一転して冷気が襲う(夜、脅かすもの)。その過酷な自然の中で詩人は主の護りの中にあることを感謝する。「御翼の陰に」、親鳥が子を保護する様に主の護りの中にある幸いが歌われる。
−詩編91:3-5「神はあなたを救い出してくださる、仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない」。
・暗黒の中を行く疫病も(詩人はアッシリア軍の18万人が一夜の疫病で殺された事例を思い起こしている=列王下19:35)、真昼に襲う病魔も(ここでは出エジプトの過ぎ越しが思い起こされているのか=出エジプト記12:29-30)、あなたを襲うことはない、主は信仰者を護られると詩人は賛美する。
−詩編91:6-10「暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない」。
・詩人は災いや不幸が信仰者に臨むことはないというが、そうだろうか。罪人は罰せられ、義人は救われるという因果応報論でこの世の出来事全てが説明しうるだろうか。義人は被災しないとしたら、被災して亡くなった人は罪を犯したのだろうか。イエスはそうではないと言われた。イエスの言葉は、東日本大震災の意味を考える時の大事な視点だ。
−ルカ13:1-5「そのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」。
2.神の力を自分の為に用いられなかったイエス
・詩編91編11-12節は「荒野の試み」の中で、サタンがイエスを誘惑した聖句として有名だ。サタンは荒野で祈るイエスを誘惑して言う「神の子なら神殿の屋根から飛び降りたらどうだ。神はお前を守ると書いてあるのだから」。
−詩編91:11-12「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。
−マタイ4:5-7「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った『神の子なら、飛び降りたらどうだ。“神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える”と書いてある』。イエスは『“あなたの神である主を試してはならない”とも書いてある』と言われた」。
・イエスが言われたのは「自分の為に神の力を用いるな」ということだ。人は信仰においてさえも自己追求、「ご利益」を求める。教会史の中で詩篇91編はお守りとして人々が身につけるものとなり、やがては各人の守護天使あるいは守護聖人を信じれば平安だとの迷信を生んでいく。イエスは「自己の命を救おうとする者はそれを失い、神のために自分の命を失う者は命を見出す」と言われた。信仰とは「自分の救いすら不確かな状況においても信じていく」ことだ。
−マタイ10:38-39「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。
・私たちは信仰に報いを求めることはやめよう。どのような時にも、神が共におられることを知るならば、それで十分ではないか。旧約の詩人は長寿を求めた。私たちも長寿が望ましいとは思う。しかし長寿を超える幸いが「インマヌエル」、神共に居ますことだ。復活を知らない故に死を恐れる旧約の限界がこの詩の中にある。ルターは先の讃美の中で「我が生命もわが宝も取らば取りね。神の国はなお我にあり」と死を超える幸いを歌うことができた。
−詩編91:14-16「彼は私を慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。私の名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼が私を呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、私の救いを彼に見せよう」。
*詩編91編参考資料〜東日本大震災を神学者はどう受け止めているのか
・芦名定道「地の基は震え動く」
3月11日の東北・東日本の大震災、日本人は、「地の基は震え動く」ことを体験し、大きな不安の中にある。これは、現代のおける「環境」という問題の強烈な仕方での現われであり、ここに現代人は再度宗教的問いの前に立たされることになった。「地の基は震え動く」というこの言葉は、聖書のイザヤ書24章18〜20節の一節であるが、神学者ティリッヒは、1948年に刊行された最初の英語での説教集(Paul Tillich, The Shaking of the Foundations, Charles Scribner's Sons, 1948)の表題として、この聖書の言葉を選んだ。
「『地の基は震え動く』、預言者のビジョンは現実となり、自然現象や歴史的な事実とさえなります。『地は砕け、甚だしく砕ける』とは、単に詩的な比喩ではなく、私たちにとって厳しい現実になりました。これは、私たちがいま突入した時代の宗教的意味を指し示しています。」(14頁)。
日本人は震災の打撃を受け不安の中にあり、希望を見失ったかに見える。もちろん、日本がこうした震災を経験したのは、これが初めてではない。先の阪神・淡路大震災(M7.2)、そして1923年の関東大震災(M7.9)。今回のM9.0には規模で及ばないものの、関東大震災では、死者が105,000人、行方不明37,800人、全壊家屋128,000戸、全焼家屋447,000戸にのぼったと記録されています。「地の基は震え動く」とは、現代日本人の体験そのものです。大阪市立高等商業学校(現在の大阪市立大学)の英語講師として大阪に住んでおり、たまたま東京で関東大震災に遭遇したJ.V.Martin宣教師が、大震災の夜に作詞作曲した讃美歌(聖歌397)「とおきくにや」(イザヤ45.22)の歌詞を以下に掲載し、現在震災の不安の中にいる方々に捧げます。Martinは、被災者を見舞うために、明治学院のグランドに向かいました。大勢の人々が肩を寄せ合い、絶望と悲しむに包まれたグランドに近づいたとき、彼の目に飛び込んできたのが、夕闇に浮かぶ十字架だったと言われます。
1.遠き国や 海の果て いずこに住む 民も見よ 慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて ながために 慰めもて 我がために 揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり
2.水はあふれ 火は燃えて 死は手をひろげ 待つ間にも 慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて ながために 慰めもて 我がために 揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり
3.仰ぎ見れば など恐れん 憂いあらず 罪も消ゆ 慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて ながために 慰めもて 我がために 揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり
・川上直哉「なぜこんな事に」
関東大震災時に高倉徳太郎は英国でフォーサイスのJustificationを偶然読んで、フォーサイスに魅了された。今、それを翻訳しようと決意している。フォーサイスの論点は明確だ。神に「なぜこんな事を」と問うのが誤りである事。そうではなくて、「神はこの事態をどう良いものにするのか」と問わねばならない。原因を追求しても、怒りが増すだけ。目的を見いだして行けば、そこに展望が拓ける。
・大木英夫「二つの被災」
二つの原爆経験は、二つの異なる対応を惹き起こした。広島の対応は、「怒りのヒロシマ」、長崎の対応は、「祈りのナガサキ」と呼ばれるようになった。「怒りのヒロシマ」は、東西対立の冷戦時代に共産圏の反米的「平和運動」に利用された。長崎の原爆は、偶然的にカトリック教会の上に投下された。犠牲になったのは多くのカトリック信者たちであった。被爆したカトリック信者の医師永井隆は、その犠牲を贖罪の燔祭(ホロコースト)であるとさえ解釈した。それによって戦争を終わらしめ、「一億玉砕」から日本人を救ったからだと言う。長崎は、明治維新に至るまでキリシタン弾圧の殉教の地である。彼は医者であったが、かくの如く「現実」を神学的に捉えた。