1.エゼキエルの見た神殿の荒廃
・捕囚から6年目の6月、エゼキエルは捕囚地バビロンで長老たちと会っていた。人々は故国の今後についてエゼキエルに預言を求めていたのだろう。その時、主の霊がエゼキエルをつかみ、彼をエルサレム神殿に連れて行った。
-エゼキエル8:1-3a「第六年の六月五日のことである。私は自分の家に座っており、ユダの長老たちが私の前に座っていた。その時主なる神の御手が私の上に下った・・・彼が手の形をしたものを差し伸べて、私の髪の毛の房をつかむと、霊は私を地と天の間に引き上げ、神の幻のうちに私をエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った」。
・彼が神殿で見たのは神殿内に異教の偶像を持ちこみ、それを拝む人々であった。最初に見たのは「激怒を起させる像」、バアルの配偶女神アシェラの像であった。マナセ王の時代に神殿にアシェラ像が持ち込まれ(列王記下21:2-3)、ヨシヤ王の宗教改革で除去されたが、王の死後、再び持ち込まれたのであろう。滅亡後エジプトに逃れた人々は、「天の女王(アシェラ)に香をたきブドウ酒を捧げるのをやめたから災いが来た」と理解していた(エレミヤ44:17-19)。
-エゼキエル8:3b-6「そこには、激怒(口語訳:妬み)を起こさせる像が収められていた・・・彼が私に『人の子よ、目を上げて北の方を見なさい』と言ったので、北の方に目を上げると、門の北側に祭壇があり、入り口にはまさにその激怒を招く像があるではないか。彼は私に言った『人の子よ、イスラエルの人々が私を聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る』」。
・中庭には建物があり、入ると、壁一面にワニやヘビの偶像が彫り込まれ、長老たちがいた。エジプトに頼って国の解放を目指す者たちがエジプトの神々を持ち込んだのであろう。そこには書記官シャファンの子さえもいた。
-エゼキエル8:7-11「彼は私を庭の入り口に連れて行った。見ると、壁に一つの穴があるではないか・・・壁に穴をうがつと、そこに一つの入り口があるではないか。彼は『入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい』と言った。入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。その前に、イスラエルの長老七十人が、シャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていた。彼らは、それぞれ香炉を手にしており、かぐわしい煙が立ち昇っていた」。
・彼らは「主は私たちを捨てられた」としてエジプトの神々を拝んでいた。指導者たちはエジプトの援軍を待っていた。
-エゼキエル8:12-13「彼は私に言った『人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている』。彼はまた私に言った『あなたは、彼らが行っている更に甚だしく忌まわしいことを見る』と」。
2.救うためにひとたび滅ぼせ
・神殿の北ではバビロニアの豊穣神タンムズ(ギリシャ神話アドニス)が拝まれていた。彼は乾季が始まると死んで黄泉に下り、春の雨と共によみがえり、草木を再生させる。女たちは黄泉のタンムズを泣いて呼び戻す祭儀をしていた。
-エゼキエル8:14-15「彼は私を、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながら座っているではないか。そこで彼は私に言った『人の子よ、見たか。あなたは、これより更に甚だしく忌まわしいことを見る』と」。
・神殿の中庭では祭司たちが神殿に背を向けて東の太陽を拝んでいた。
-エゼキエル8:16「彼は私を主の神殿の中庭に連れて行った。すると、主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、二十五人ほどの人がいて、主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか」。
・この幻の意味するものはエルサレムの全ての者が誤った礼拝に陥っていたことだ。民は豊穣の女神アシェラを拝み、指導者たちはエジプトの神を礼拝し、女たちは生ける神への信仰を失い、祭司たちまでが被造物である太陽を拝んでいた。もはやエルサレムには何の希望もないことをエゼキエルは示された。
-エゼキエル8:17-18「彼は私に言った『人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、私の鼻に木の枝を突きつけて、私を更に怒らせようとしている。私も憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らが私の耳に向かって大声をあげても、私は彼らに聞きはしない』」。
・多神教化した信仰を正しい神信仰に戻すには破壊が必要である。そのためには彼らは一旦砕かれなければならない。エゼキエルはエルサレム滅亡が避けられないことを知った。矢内原忠雄は中国への侵略を続ける日本軍国主義を見て、「この国を一先ず葬り去って下さい。そこからしか再建はありません」と書き、信仰誌「嘉信」は廃刊とされた。
−矢内原忠雄『嘉信』1937年10月号「今日は、虚偽の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失った日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください」。
*参考資料「イスラエルにおける多神教化について」(月本昭男「古代イスラエルの唯一神教の成立」から)
・紀元前9世紀、8世紀の遺跡から出て来る碑文の中に「ヤハウェとアシェラ」が出てきます。まずKhirbet el-Qomというユダの墓地から出てきた石板に刻まれたヘブライ語の碑文に当時のヘブライ文字で「ヤハウェとアシェラ」と書いてあります。さらに南のシナイ半島に入るKuntilet’Ajurudの遺跡から複数のものが出てきますが、この碑文でもヤハウェとアシェラが並べられている。同じKuntilet’Ajurudから出土したピトスという土器の壺の腹の部分に書かれた手紙の碑文が2つございます。「私はお前たちをサマリアのヤハウェと彼のアシェラによって祝福した」という部分が手紙の内容です。さらに、もう一つの碑文にも「テイマンのヤハウェと彼のアシェラによって」というのが出てきます。つまり複数の碑文にヤハウェとアシェラが並んで出てくる。しかも「彼の」アシェラと出てくる。アシェラは旧約聖書に四十例出てきます。旧約聖書で異教の祭儀として非難されるわけで、普通はバールとアシェラ、旧約聖書が目の敵にするカナンの豊穣の神バールと、その配偶女神としてアシェラが批判されて出てきます。アシェラはカナンの女神だったわけで、さらにイスラエル以前の時代、さきほどお話したウガリット神話では最高神エールの配偶女神として出てきます。パレスチナにアシェラ信仰がどの程度広がっていたかを示すものとして、ウガリト神話をはじめ北パレスチナで出土したアラム語碑文などを挙げることができます。
・アシェラはヤハウェの配偶女神として受け止められていたらしい。アシェラはヤハウェの配偶女神として、おそらく古代イスラエルの人たちはヤハウェの神は一人では寂しかろうと奥さんをあてがった可能性はあります。時代は下がりますが、バビロン捕囚時にエジプトに逃れ、エレファンティーネでユダヤ人の共同体を営んでいた人たちが紀元前5世紀にアラム語の契約文書等々を残しております。エレファンティーネではヤハウェの神は一人では寂しかろうとアナトという女神をあてがって、ヤハウェとアナトの両方を祀っていたのであります。このように、古代イスラエルの時代は、実際には多神教世界だったという論調がございます。事実そうだろうと思います。そうであればこそ、多神教の背景の中で「ヤハウェのみ」という主張が自覚的に起こってきたのであろうと思います。我々が持っている旧約聖書は少数の自覚的なヤハウェ主義者たちが最終的にまとめていった書物を手にしているということではなかろうかと思います。
・以上述べてきたことをまとめますと、古代イスラエルの一神教は王国時代には実際には多神教であり、それ以前に一神教的なものが、どのような形で確立していたのか見極め難い。一神教は初期イスラエルの神観を継承しながらヤハウェのみを崇拝するという自覚的な人たち、その中に預言者の運動があったと思いますが、彼らが展開し、継承した神観ではなかったかと思います。それを古代西アジアという大きな脈絡に位置づけてみますと、単純に一神教がエジプトでもなく、バビロニアやアッシリアでもない、政治的に自分たちの普遍性を主張できた国ではなく、絶大な政治権力を持ちえなかった、文化的にもその普遍性を主張できなかった弱小のイスラエルの民の間に生まれた。そこに絶対的な普遍的な唯一神観が成立した。これは人類における宗教史の逆説の一つではないかと思うのであります。