1.創造し、支配される神への賛歌
・詩編33編は天地を創造し、支配される神への賛歌である。偶像礼拝の神々に囲まれた中で、イスラエルの詩人は主のみを賛美すると歌う。主は常に「新しい恵み」を下さるから、「新しい歌」で応答すると詩人は歌う。
−詩編33:1-3「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。新しい歌を主に向かって歌い、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ」。
・主は言葉によって天地を創造された。「光あれ」といわれると光が創造され、「水を分けよ」といわれると、大海の水はせき止められ、深淵の水も天の倉に納められる。天地は神の言葉によって造られ、保持されている。
−詩編33:4-7「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた」。
・神の言葉は単なる音声ではなく、事柄を生み出す力であるとイザヤ書の詩人も歌う。
−イザヤ55:10-11「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。
・創造の神はまた歴史を支配される神である。小国イスラエルは大国エジプトやアッシリアに支配されてきた。しかしいかなる強国も時が来ると滅ぶのに、小国イスラエルのみ数千の歴史を生き残った。そこには神の摂理がある。
−詩編33:8-12「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は」。
・だから詩人は歌う「勝利は兵の数でもなく、馬の数でもない。勝利をもたらされるのは主である」と。
−詩編33:16-17「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない」。
2.希望の福音
・主は人をひとりひとり注視され、気に止められる。主は人を外見ではなく、その心で見分けられる。
−詩編33:13-15「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる」。
・近年、醜形恐怖症にとらわれる若者が増えている。「見た目を重視する」風潮(“人は見た目が9割”という本がベストセラーになる)の中で、自分の顔や外形を実際よりも醜いと感じ、見られることを怖れて外出できなくなり、学校や会社を辞めて引きこもる。整形をする人も多い。外面ではなく、内面の大事さを伝える必要があろう。
−?サムエル16:5-7「サムエルはエッサイとその息子たち・・・招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた『容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。
・詩人は「主が常に御目を注いでくださるから、死も飢えも恐れない」という。
−詩編33:18-19「見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる」。
・信仰は過去における神との出会いから生まれる。そして信仰者は「神が共にいてくださる」と信じる故に、どのような状況下でも希望を持つことができる。強制収容所を生き残った人々は体力に恵まれた人ではなく、希望を持ち続けた人々であったと自ら収容所を体験したフランクルは述べる。
−フランクル「夜と霧」:「自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していった」。
・現代の日本は「希望喪失社会」だ。年間3万人の人が自殺し、未遂者も含めれば、毎年、30万人の人が自分の命を絶とうとする異常な社会だ。私たちが福音伝道を行うのは、教会の教勢を伸ばしたいためではない。福音には人を絶望から解放する力があることを知るからだ。
−ルカ4:18-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。