江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年4月21日説教(ルカ24:33−49、復活のイエスの証人として)

投稿日:2019年4月21日 更新日:

2019年4月21日説教(ルカ24:33−49、復活のイエスの証人として)

1.弟子たちに現れたイエス

・イースター礼拝の時を迎えました。イースター(復活)は教会にとって何よりも大事な事柄です。何故ならば教会の礼拝はその基本において、「主イエス・キリストのよみがえり=イースターを信じる」ことにおいて成り立っているからです。復活された主は「今も共に生きておられる」、私たちはその復活の主に会うために、日曜日に教会に集まり、主を礼拝します。教会の礼拝はすべて、「主のよみがえりを記念するイースター礼拝」です。それほど「主イエス・キリストのよみがえり」は大きな意味を持ちます。その次第を記した文書が本日読みますルカ24章です。
・イエスは金曜日に十字架で亡くなられましたが、翌土曜日は安息日のため、一日待って、三日目の朝、日曜日早朝に、婦人たちは墓に急ぎました。あわただしく十字架から降ろされ、仮埋葬されたイエスの遺体に油を塗って丁寧に埋葬するためです。ところが、婦人たちが墓についた時、イエスの遺体はそこになく、二人の天使が現れ、「なぜ生きておられる人を死者の中に探すのか。イエスはよみがえられてここにおられない」と告げます(24:5-6)。婦人たちはそのことを弟子たちに報告しますが、弟子たちはそれを「たわごと」と思い(24:11)、信じなかったとルカは記します。
・同じ日曜日の昼間、エマオに帰る弟子たちにイエスが現れて同行されますが、弟子たちはその人がイエスであることがわからなかったとルカは報告します(24:15-16「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」)。その後エマオに着き、共に食卓に着いて、イエスがパンを割き、祈られた時に弟子たちはその人がイエスだと分ります(24:31)。復活のイエスと出会った弟子たちは心を弾ませて夜の道を急いでエルサレムに戻り(24:33)、仲間の弟子たちに、「イエスが復活された」と伝えます(24:35)。
・その頃、エルサレムに残った他の弟子たちは失意と恐怖の中で、家の戸にかぎをかけて部屋に閉じこもっていました。自分たちも捕らえられると恐れていたからです。そこへイエスが現れます。弟子たちは復活のイエスを見て、「亡霊を見ているのだと思った」(24:37)とルカは記します。あまりにも不思議な出来事で、とても信じることが出来なかったのです。その弟子たちのために、イエスはくぎに刺された手足をお見せになって言われます「私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある」(24:39-40)。
・やっと信じた弟子たちに、イエスは復活の証人になりなさいと言われます「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣伝えられると。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となるのだ」(24:45-47)。復活の日、十字架から三日目の日曜日に、イエスは早朝に婦人たちと墓で出会い、昼にエマオに向かう弟子たちに現れ、夜にはエルサレムに残った弟子たちに現れたとルカは伝えます。

2.私たちにとって復活とは何か

・復活の記事は私たちにいろいろなことを教えます。弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストが弟子たちに現れたからです。しかし、最初は弟子たちも信じることができなかった。婦人たちの証言を聞いても弟子たちはそれを「たわごと」と思い、エマオに向かう弟子たちも同伴したイエスがわからなかった。エルサレムに残った弟子たちも、最初は「亡霊を見ている」のだと思った。復活とはそれほど信じることの難しい出来事なのです。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たち自身が復活のキリストに出会った時です。
・聖書学者のブルトマンは「新約聖書と神話論」の中で語ります「復活について歴史的に確認できるのは初代の弟子たちの復活信仰のみである。キリストの甦りとしての復活祭の出来事は決して史的出来事ではない。史的出来事としては、復活祭信仰は初代の弟子たちの信仰だけが把捉しうる」と。学問的には彼の語る通りで、人間の理性で判別できるのはそこまでです。それに対して、信仰者は理性を超えた真実を主張します。教義学者カール・バルトは反論します「ブルトマンは、甦りの出来事を“復活者を信じる信仰の発生”として解釈している時、復活の出来事を“非神話化”している。復活者を信じる信仰の発生は、復活者が歴史的に出現することによって起こって来るのであり、復活者の歴史的出現それ自体が甦りの出来事である。イエスご自身が甦って彼の弟子たちに現れ給うたのであって、そのことが甦りの歴史と甦りの時間の内容であり、その当時とあらゆる時代のキリスト教信仰とキリスト的宣教の内容である」。
・私たちはカール・バルトを支持します。何故ならば私たちも、それぞれの場で、復活のキリストに出会ったから、今ここにいるのです。もし、私たちが出会ったイエスが偽りであり、幻であるとすれば、私たちには何の希望もなくなり、私たちの信仰もまったくの無駄になります。パウロが言う通り、「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(第一コリント15:14)。しかし私たちは復活のイエスに出会った、だから復活を信じます。
・そして復活を信じることによって、私たちはもはや死を恐れる必要はなくなり、死の縄目から解放されます。死の縄目から解放されるということは、死ですべてが終わらないから、現在の生を大事にする生き方をすることが出来ます。死に勝たれた方がおられるから、私たちは現在がどのように絶望的で、出口が見えない状況にあっても、希望を失わずに生きていくことが出来ます。この復活の希望があるからこそ、私たちは自分の十字架を負って、イエスに従っていきます。復活はそれほどに私たちにとって大切な出来事なのです。
・教会はこの復活信仰の上に立てられています。私たちは日曜日を「主の日」と呼び、この日に礼拝を守りますが、これは金曜日に十字架で死なれたイエスが、三日後の日曜日に復活されて弟子たちの前に現れたことから、教会はこの日を「主の日」と定め、日曜日に礼拝を守るようになりました。当時の人々にとって聖書(現在の旧約聖書)は絶対の神の言葉でした。その中心となる十戒には「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:10)と規定します。「七日目」、つまり土曜日が安息日であったのに、教会はこれを「日曜日」に変えた。これは大決断でした。日曜日はそれほど重い日であり、私たちは復活の主に出会うために日曜日に教会に来るのであり、ホリデーではないことを銘記したいと思います。

3.復活の信仰に生きる

・復活されたイエスは弟子たちに「あらゆる人々に福音を告げなさい」と命令されました(24:47)。今日の証詞に私たちはマタイ28:19-20を選びました。次のような言葉です「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
・「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子としなさい」、これが復活の主が私たちに命令されたことです。その命令を受けて弟子たちは宣教を始め、教会が立てられて行きました。教会はエルサレムから始まり、ローマ世界に広がり、ヨーロッパに広がり、アメリカに行き、そのアメリカを通して日本にも伝えられました。日本人もこの宣教命令を受けて教会を立て、新小岩教会が立てられ、新小岩教会の伝道所としてこの篠崎教会が立てられました。篠崎教会が立てられたのも、新小岩教会の人たちが、このイエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからです。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などありません。そうではなく、篠崎に住む人々にイエスの言葉を伝えるために必要だからこそ、この地にこの教会が立てられた。それは復活のイエスの命令にその根拠を置く行為です。
・私たちはこの宣教命令、「あらゆる人々に福音を告げなさい」という命令をどう聞くのでしょうか。私たちが自分の信仰生活を守るだけであれば、ここ篠崎に教会がある必要はないかもしれません。今、多くの人々が小さい教会を離れて大きな教会に移動しています。大きな教会は教会員がたくさんいるから献金負担も軽いし、奉仕も誰かがしてくれる、重荷を担わなくとも教会生活ができるからです。それに対して小さい教会の場合は、教会員が少ないから、一人一人への負担が経済的にも、また奉仕の面でも重くなります。私たちがただ礼拝を守りたいだけであれば、この篠崎教会は不要です。近くに他の教会もあるし、無理して篠崎教会を維持する必要はありません。そうではなく、この地域の人に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解する時だけ、この地に教会が必要です。
・パウロは復活の主に出会った経験をコリント教会への手紙の中で書きます。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(第一コリント15:3-8)。復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであり、その他の人たちは復活のキリストに出会っていないことに注意する必要があります。復活のキリストは霊の体であり、信仰なしには見えないのです。私たちは復活のキリストに出会って、心が熱く燃えた経験を持ちます。今も熱く燃えているかが課題です。
・今、私たちの教会は存続の危機に立っています。古くからこの教会を支えてくださった方々が、お年を召したり、病気になられたりで、共に礼拝を守れなくなっています。他方、新しく会員になって支えて下さる方も少ない。いま、この教会は皆さんの力が必要です。もし皆さんが、今も熱く燃えているならば、この篠崎教会を基点として、ご一緒に伝道にまい進して行きたいと願う。もし、皆さんの熱が少し冷めているならば、今改めて復活のキリストを呼び求めてほしい。皆さんなしには、この教会は伝道できないのであり、皆さんなしにはこの教会は存続し得ない。この教会が復活のキリストの命令に応えて立てられていることを共に覚えたい。

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