1.ローマ書の示す罪のあり様
・私たちの教会では、今「ローマの信徒への手紙」を連続して読んでいます。今日が三回目です。パウロはいつの日か、世界の中心であるローマに行って伝道したいと願っていました。だからローマの教会に手紙を書いています。通常であれば挨拶と自己紹介の簡単な手紙になるはずでした。しかし、ローマ教会には問題がありました。そのため、パウロは問題解決を目的に詳細な救済論を書くに至りました。ローマ教会の問題は、教会内のユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に対立があったことです。教会の多数派である異邦人信徒はユダヤ人信徒を「弱い者」(14:1)と軽蔑していました。ユダヤ人は律法に縛られて肉を食べたり、酒を飲んだりすることを罪としていたのです。他方ユダヤ人信徒は異邦人信徒を「罪人」(14:3)として裁いていました。神の戒めである律法を守ろうともしないで、自分勝手に生きていると非難していたのです。同じ教えを信じる信仰者の間に対立や争いがある、パウロはその根本原因に人間の罪を見ています。そのため最初の挨拶の言葉を終えるや、パウロは「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節から3章20節までの箇所です。
・パウロはまず異邦人信徒に対して、「あなたがたは神を認めようとしなかったので、神はあなたがたを無価値な思いに渡され、そのため、あなたがたはしてはならないことをするようになった」(1:28)と批判します。そしてユダヤ人信徒に対しては「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(2:1)と批判します。「異邦人もユダヤ人も共に罪人なのだ、だからあなたがたは教会で争っているのだ」とパウロは語ります。それが3:9以下の箇所です。「では、どうなのか。(ユダヤ人である)私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない』(3:9-11)。
・そしてパウロは詩篇やイザヤ書を引用しながら、人間の罪の有り様を表示します。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(3:13-18)。この「彼ら」を「私たち」と言い換えれば、それは私たちの真実の姿です。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。(私たち)ののどは開いた墓のようであり、(私たち)は舌で人を欺き、(私たち)の唇には蝮の毒がある。(私たち)の口は呪いと苦味で満ち、(私たち)の足は血を流すのに速く、(私たち)の道には破壊と悲惨がある。(私たち)は平和の道を知らない。(私たち)の目には神への畏れがない」。多くの人は「自分はここまでひどくない」と思うでしょう。でもこれが私たちの真実な姿です。人は歴史以来、争い合い、殺し合ってきました。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも戦争をやめることはできません。シリアやアフガニスタンで今なお行われている出来事を見れば、人間の罪を思わずにはいられません。また神は生命を継承するために人を男と女に造られましたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や同性愛を繰り返してきました。この世は罪と不正に満ちている、あなたがたもその中にあるのだとパウロは指摘しているのです。
・そして私たちの真実の姿を提示するものが律法です。パウロは語ります「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じない」(3:20)。神は私たちに律法をお与えになりました。その律法とは「神を愛し、また隣人を自分のように愛する」(マルコ12:33)ことです。しかし、私たちは本気で神を愛せないし、人を愛せない存在です。ヤコブが語る通りです「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(ヤコブ3:8-9)。あなたがたローマ教会の人々が異邦人もユダヤ人も共に同じ神を礼拝しながら、陰ではお互いを非難しあっているとすれば、どこに善があるのか、どこに義があるのか、どこにもないではないかとパウロは語るのです。
2.しかし神はキリストを通しての救いを約束された
・「ところが今や」とパウロは語り始めます。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(3:21-22)。聖書は繰り返し、「神は悪を滅ぼし正しい人を救う」と語ります。しかし全ての人が罪の中にあり、正しい人が誰もいないとしたら、私たちに与えられるのは滅びしかありません。誰も救われないのです。しかし、そのような私たちに、神はキリストを通して救いを与えて下さったとパウロは語ります。この新しい神の義は「律法とは関係なく」与えられました。イエスの十字架死は律法から見れば神の呪い(申命記21:23「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」)になります。しかし「律法と預言者によって立証されて」、旧約聖書に預言された神の救いが、「イエスの復活」という形で与えられたのだとパウロは語ります。
・パウロは続けます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。この贖いとは「罪の償い」という旧約祭儀から来る言葉です。次の25節には「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」にあります。この「罪を償う供え物」、ギリシア語「ヒラステーリオン」は、神殿の至聖所にあります「契約の箱の蓋」を指します(出エジプト記25:17)。神殿祭儀では動物の犠牲をほふり、その血を契約の箱に振りかけることで罪の贖いが為されます。人間の罪が身代わりの犠牲の血で清められる。しかし、パウロはこのようなユダヤ教の祭儀はキリストの十字架を通して不要になったと言います。ヘブル書は語ります「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになった・・・雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11-12)。
・人は、神が示されたこの救いの業を信じることを通して、価なしに救われる道が開けたと語ります。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(3:25-26)。この「イエスを信じる者は義とされる」という新共同訳は誤訳だと言われています。原文に忠実に訳せば「イエス・キリストの信仰によって」です。すなわち「イエスが命をかけて示した神に対する従順な生き方を通して救いが生じる」(廣石望、代々木上原教会説教から)、あるいは「イエス・キリストを通して現れた神の真実」(K.バルト訳)が人間を救うのです。何故この訳にこだわるのか、それは新共同訳のように「イエスを信じる信仰」によって人が救われるとしたら、人間の信仰の有無が救済条件になります。しかしパウロは「無条件の神の赦し」を述べており、そこに人の行為は無関係です。あくまでも神の無条件の赦しが人間を救うのです。そこでは人間の側に何も誇るものが生じません。あるのは感謝です。信仰は救いの条件ではなく、救われたことに対する人間の応答なのです。
・この「信仰義認」はパウロの深い悔い改めから見出された真理です。パウロはかつてキリスト教会への迫害者でした。パウロはその過程で「この道(キリスト信徒たち)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」と告白しています(使徒22:4)。パウロは殺人さえ犯している前科者なのです。しかしそのパウロでさえも神はキリストを通して赦して下さった。パウロは告白します「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5:10)。あなた方も赦しの中にあるのだ、それをわかってほしいとパウロは熱願します。
3.無償で与えられる赦し
・今日の招詞にルカ15:24を選びました。次のような言葉です「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた」。放蕩息子の物語は、「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まります。弟息子は堅苦しい父との生活にうんざりし、家を出て行く決意を固め、父親に財産の分け前を要求します。父は息子の意思を尊重し、財産である土地や家畜を二人の子に分け与えます。弟息子は財産を金に換え、遠い国に旅立ちましたが、お金を湯水のごとくに浪費し、使い果たしてしまいます。やがて彼は食べるものにも困るようになり、豚のえさであるいなご豆でさえ食べたいと思うほど飢えに苦しみます。人は落ちるところまで落ちた時、初めて悔い改めます。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思った時に、我に返りました「父のところには有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。父のところに帰ろう」(ルカ15:17−18)。放蕩息子は「父の子」であることを思い起こし、自分の罪を認め、もう息子と呼ばれる資格は無いと考えました。彼は、どのような裁きを受けようとも、父の家に帰ることを決意します。
・父親は息子の身を案じ、毎日、息子の帰りを待っていました。ある日、その息子が帰ってくるのが見えます。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。息子は父親を見ると、謝罪の言葉を口にし始めますが、父親はそれをさえぎって使用人に命じます「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。父親はこの放蕩息子の帰還を無条件で喜び迎え、祝宴の支度をするように命じます「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」。そして招詞の言葉が語れます「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。
・ここでは悔い改めも贖罪も求められていません。父親の側からの無条件の赦しがあります。しかも無償で赦されます。この無条件の罪の赦しこそ、パウロがローマ書で語る福音なのです。人間がどのように努力しても、救われることも義とされることも出来ない。そういう窮地に陥っている人間に神の方から救いの手が伸ばされた。それがキリストの十字架です。パウロはコリント教会への手紙の中で語ります「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(�コリント1:18)、神の子が地上に来た、御子の十字架死を通して救いが来た、この世の知恵では愚かな言葉です。しかし「救われる者には神の力」、私たち自身がキリストと出会った時に初めてわかる真理なのです。