1.イエスの逮捕
・マルコ福音書の受難物語を読み続けています。最期の晩餐を終えられたイエスと弟子たちは祈る為にオリーブ山に向かわれました。オリーブ山はエルサレム郊外にある小高い丘で、そのふもとにゲッセマネ(油絞り)という園がありました。イエスと弟子たちはこれまでに何度も祈りのためにゲッセマネに来ておられました(ヨハネ18:2)。その場所でイエスは弟子たちに共に祈ってくれるように要請されます「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(14:34)。死を前にして、イエスはもだえ苦しまれました。マルコはイエスの祈りを伝えます「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)。しかし神からの応答はありません。イエスはその沈黙の中に神の意志を見出されました。「誰かが苦しまなければ救いはないのであれば、私が苦しんでいこう」とイエスは決意されます。弟子たちは眠り続けています。イエスは弟子たちを起こして言われました「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(14:42)。
・イスカリオテのユダが神殿兵士たちを引き連れて、イエスを捕えるためにやって来ました。ユダが連れて来たのは、「祭司長・律法学者・長老たちから送られてきた群衆」とあります(14:43)。しかし、ヨハネに依れば「一隊の兵士と千人隊長、ユダヤ人の下役」(ヨハネ18:3、18:12)が来たとありますので、神殿警護兵たちと共にローマ兵も出動してきたと思われます。ローマ兵の出動は単なる異端者の逮捕ではなく、ローマに反乱を起こしかねないメシア運動の首謀者たちを鎮圧に来たことを伺わせます。彼らは、イエスと弟子たちが抵抗することを予想し、相当の人数と武器をそろえて来たのです。木曜日の深夜、あるいは日付が変わって金曜日になっていたのかも知れません。あたりは暗く、松明の明かりだけが闇を照らしていました。ユダはあらかじめ「私の接吻する人がイエスだから、その人を捕まえるように」と取り決めており、イエスに近づいて接吻し、それを合図に兵士たちがイエスを捕えました。兵士たちはイエスの顔がわからなかったのでしょう。
・この時、イエスは何の抵抗もされませんでしたが、そばにいた者の一人は剣を抜いて大祭司の僕に切りかかります。それが誰かはわかりません(ヨハネはペテロですと推測しています、ヨハネ18:10)。しかし、イエスはそれを止められます。ヨハネ福音書に依れば、その時イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われています(ヨハネ18:11)。「父がお与えになった杯」、イエスは受難を父なる神から与えられたものとして受けようとされています。だから「剣を納めなさい」とイエスは言われ、この言葉で弟子たちの戦意は削がれ、弟子たちはみなその場から逃げ去って行きました(14:50)。この場にはもう一人の人間がいました。14:51に依れば亜麻布をまとった若者で、彼も捕えられそうになり、亜麻布を捨てて裸で逃げ去ったとあります。伝承に依ればこの若者は福音書の著者マルコで、彼も様子をうかがうために現場に来ており、騒ぎに巻き込まれて慌てて逃げ去ったと言われています。
2.イエスの逮捕と弟子たちの逃亡をどう理解するか
・私たちはこの物語で二つのことに注目したいと思います。一つは「イエスが捕らえられたのはゲッセマネであった」という事実です。イエスは最後の晩餐を弟子たちと取られた時、イスカリオテのユダの裏切りを指摘され、ユダはその場から退出しています(ヨハネ13:30)。イエスはユダがその足で祭司長たちの所に行くことを推察されたでしょう。それにもかかわらず、いつものように、ゲッセマネの園に向かわれました。イエスと弟子たちが何度も足を運んだ所、ユダもその場所を知っている所です。もしこの時、イエスが逃亡を決意されて、別の場所に行かれれば、逮捕を免れることは可能だったでしょう。しかしイエスはあえてゲッセマネに行かれ、そこにユダが祭司長の手下たちを連れてイエス逮捕に来ます。つまり、イエスは自分が捕らえられるように行動されたのです。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、あえて逮捕されたことにより、裁判が始まり、死刑が宣告され、処刑が実行されます。もしイエスが十字架で死なれなければ、復活もなく、世の救いもなかった。イエスが逮捕という極限状況を回避しようとはされなかったことを私たちは銘記すべきです。私たちも同じような極限状況に追い込まれることがあるでしょう。その時、どうするか、「イエスは死を恐怖されたが、それを回避されなかった」ことは、私たちに指標となり得ます。
・二番目の留意点は「イエスが何の抵抗もされなかった故に、弟子たちの戦意が削がれた」という事実です。捕り手が来た時、弟子たちの一人はイエスを守るために剣を抜きましたが、イエスはそれを止められます。もしイエスが「私のために戦え」と言われたら、弟子たちは戦ったかも知れません。しかし、イエスは弟子たちを止められ、弟子たちの戦意は萎え、彼らはその場から逃亡しました。もしここで、弟子たちが勇敢に踏み止まり、戦ったらどうなっていたでしょうか。ある者は殺され、別の者は逮捕されて処刑されたかも知れません。そうすればこの受難物語の証人はいなくなり、物語は書かれることなく、またイエスの復活を証しする者もいなくなり、教会は成立しなかったかも知れません。
・弟子たちの逃亡の中には神の摂理が働いています。逃亡したからこそ、弟子たちは復活の証人となることが出来、自分たちが逃げ出したという隠したい出来事をあからさまにして、それを福音として伝えるようになり、私たちが今その物語を読んでいます。私たちはこの場面で、「弟子たちの弱さ」を見るのではなく、怖くなって逃げ出した弟子たちの弱さを後の強さに変えられる神の摂理を見るべきであると思います。
3.神の業を信じて
・今日の招詞にヘブル11:13を選びました。次のような言葉です「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。多くの人の人生は未完の人生です。しかし、未完には意味があります。私たちは偉大な未完の人生を送った二人の人を聖書から知ります。
・一人は申命記に記されるモーセの生涯です。モーセは、エジプトで奴隷として苦しむ民を救うために預言者として立てられ、40年間の荒野の旅を経て、約束の地カナンを前にしたモアブまで民を率いてきました。約束の地はヨルダン川を挟んで目の前にありますが、モーセはその地に入ることは許されず、モアブで死にます。申命記は記します「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った」(34:1)。その山の上で、これから民に与えられる約束の地を見ます(34:2-3)。モーセは主の命令によってモアブの地で死に、葬られますが、誰もその墓の場所を知らないと申命記は記します。私たちはモーセがどのように苦労して、民をここまで導いてきたのかを出エジプト記や民数記を通じて知っています。約束の地に入る資格があるとしたら正にモーセこそ、その人です。しかし、モーセは約束の地を前にして、人間的に見れば無念の中に死んでいきます。何故神はモーセに未完の人生を与えられたのでしょうか。申命記は記します「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、私を捨てて、私が民と結んだ契約を破るであろう」(31:16)。「これからあなたがなおも生きて見るものは民の堕落だ。もう見ない方が良い。あなたはやるべきことをやった。だから休みなさい」と神は言われたのです。ヘブル書が語るように、モーセは「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげて」、死んでいったのです。
・聖書はもう一つの無念の死を私たちに告げます。イエスの死です。イエスは死を前に、ゲッセマネで血の汗を流して祈られました「この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)。神はイエスの祈りを聞かれず、イエスを十字架につけられました。十字架上でイエスは叫ばれます「我が神、何故私をお見捨てになったのですか」(15:34)。福音書はイエスが無念の思いで死なれたことを隠しません。しかしこの無念の中から奇跡が起こります。イエスの復活です。神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死から起こし、逃げた弟子たちをも起こして復活の証人とされ、教会が形成されます。
・エリ・ヴィーゼルはアウシュビッツ強制収容所を生き残ったユダヤ人作家ですが、その著書『夜』の中で自身が収容所の中で体験した出来事を記しています。「ある日、3人が絞首刑にされた。二人の大人ともう一人は子供だった。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。二人の大人はすぐに息絶えた、しかし子供は体重が軽いため首輪が閉まらず、何時間も臨終の苦しみを続けた。それを見ていた一人が叫ぶ『神はどこにおられるのだ』。その時心のなかで、ある声がその男に答えているのを感じる『どこだって。ここにおられる、ここに、この絞首台に吊るされておられる』」。その後、ヴィーゼルは、あるユダヤ人のラビに聞いたそうです「アウシェビッツの後でどうしてあなたは神を信じることが出来るのですか」と。するとラビは「アウシェビッツの後で、どうして神を信じないでいられましょうか」と答えたそうです。イエスは時の権力者により、無念の中に殺されました。しかしその無念の中から復活という出来事が生じました。神の業は私たちの思いを越えて働かれます。私たちも長い人生の間に過ちを犯し、取り返しのつかない失敗をすることがあるでしょう。しかし神はその「悪を善に変える力」をお持ちである。そのことを私たちは今日、マルコ福音書の受難物語から確認することが出来ます。人生は信じるに足ります。なぜならどのような闇の中にあっても、そこに神がおられるからです。