1.安息日論争
・マルコ福音書を読んでおります。今日読みますマルコ2章では、イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだために咎められ、イエスとパリサイ人との間に論争が起きたことを記しています。当時のユダヤ人にとっては律法を守る、特に安息日を守ることは大事な戒めとなっていました。十戒ではそれぞれの戒めは短く「・・・せよ」「・・・するな」と言われているだけですが、安息日の厳守だけはかなり詳しく述べられています。
・申命記は記します「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。安息日は元来イスラエルの農耕生活における休息日として設けられました。農耕は過酷な労働であり、休まないと体力を回復できない。だから6日間働いて7日目には休みなさいというという祝福が与えられました。それが安息日だったのです。しかし、人間の罪はこの恵みの規定をも人を束縛する戒めに変えてしまいます。そこをイエスが戦われます。それがマルコ2章の安息日論争の物語です。
・マルコ2章を読んで行きましょう。物語は、イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通って行かれた時、弟子たちが麦の穂を摘み、もんで食べ始めたことから始まります(2:23)。お腹がすいていたのでしょうか。当時の律法では麦の穂を摘んで食べることは許されていました。申命記は記します「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(23:25 -26)。「貧しい人に分け与えよ」という隣人愛の規定です。
・しかし、イエス当時の律法は安息日には厳格でした。バビロン捕囚時代に書かれた出エジプト記では次のように記します「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」。(出エジプト記20:8-10)。当初の規定である申命記では「安息日には休むことができる」となっていましたが、後に制定された出エジプト記では「いかなる仕事もしてはならない」と意味が変わり始めてきます。これはバビロン捕囚を契機に律法が厳格化されたためだと言われています。人々は国を滅ぼされ、遠い異国の地に捕囚とされました。彼らは民族のアイデンティティを保つために、ユダヤ人であれば割礼を受け、安息日を厳格に守ることを求めました。さらに後代になると、「安息日を犯す者は殺されなければならない」(出エジプト記31:15)という禁止規定に変わっていきます。律法学者はこれを受けて、安息日には仕事を一切してはいけない、麦の穂を摘むことも刈入れに当たるから禁止されていると考えました。パリサイ人たちは、イエスの弟子たちが安息日に禁じられている仕事をしたと非難したのです。
・それに対してイエスは言われます「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」(2:25-26)。これはダビデがサウル王に命を狙われ、逃亡生活をしていた時、祭司アビメレクに保護を求め、祭司のほかは食することを許されない聖別されたパンを食べたことを引き合いにして、生存のかかる緊急時には律法に違反する行為も許されるとイエスは反論されたのです。そしてイエスは言われます「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2:27)。
・イエスの時代、人々はこの安息日の戒めを厳格に守るべきだとして、細かい規則を作りました。例えば,火をおこすこと,薪を集めること,食事を用意することさえも禁じられるようになります。ここにいたって安息日が安息の時ではなく、人を束縛するものになっていきました。イエスは恵みとして与えられた安息日を束縛と苦痛の日にしている、パリサイ人や律法学者の偽善を追求されているのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、律法を命よりも大事と考えるパリサイ人や律法学者には、これは律法を軽視した、とても許すことの出来ない言葉でした。
2.イエスはあえて安息日に癒しをされる
・イエスは安息日に多くの癒しを行われました。ある意味で、「あえて安息日に癒しを行われた」と思えるほどです。イエスはその行為を通して、「安息日の意味をもう一度考え直せ」、「安息日を再び祝福の日に戻せ」と言われているのです。マルコ3章にはイエスが安息日に会堂で片手のなえた人を癒された時に、それを安息日故に批判する人々に言われた言葉が記されています「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか殺すことか」(3:4)。
・またルカ13章では、十八年間も腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった婦人の癒しの記事があります。イエスは婦人を憐れに思われ、癒されますが、その日は安息日でした。会堂長は言います「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(ルカ13:14)。イエスはこの会堂長に激しく言われます「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(ルカ13:15-16)。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。私たちはこのことの意味を私たちの問題として考える必要があります。すなわち、私たちにとっての安息日、すなわち主の日をどのように迎えるのかという問題です。
3.ペンテコステの日に安息日を考える
・今日の招詞に第二コリント3:6を選びました。次のような言葉です「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。イエスは形式化する律法主義や、犠牲を捧げれば救われるという神殿祭儀主義に異議を唱え、その結果ユダヤ教指導者から憎まれ、過ぎ越し祭りの時に十字架につけられて殺されました。しかしイエスは復活され、復活のイエスに出会った弟子たちは再び集められ、過ぎ越し祭りから50日後の五旬祭の時に、弟子たちに聖霊が与えられました。今日はその聖霊降臨を祝うペンテコステの礼拝です。この聖霊降臨を通して、私たちは「文字ではなく霊に仕える」者へと変えられていきます。「旧い契約」は文字(律法)による契約でしたが、「新しい契約」は霊による契約で、この霊はキリストを信じる者に無条件で与えられます。この霊によって生かされた者は、新しい命を生きます。
・その新しい生命を生きる私たちは、安息日をどのように考えるべきなのでしょうか。ユダヤ教の安息日は土曜でしたが、教会はイエスの復活を覚えて、安息日を日曜日にしました。私たちは日曜日に教会に来て神の前に静まります。それが私たちの安息です。しかし、教会に来ることの出来ない時もあります。子供の運動会がある時は礼拝を休んでいいのか、夫が病気で寝込んでいる時はどうするのか、会社に日曜出勤しなければいけない時はどうするのか、多くのクリスチャンが悩まされる問題です。基本的にはイエスが言われた言葉「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」に従って判断すればよい問題です。私たちは神の前に安息するために教会に集まります。仮に、他の用事を神様からいただいたのであれば、それに従って安息日をすごせば良いのです。
・様々や用事や束縛がありますが、それが本当の用事、本当の安息なのかを考える必要があります。「子どもの運動会が日曜日にある」、子どもと共に過ごすことが神様から与えられた安息かどうか祈って、そうだと思えば礼拝を休んで運動会に行く、それが信仰の決断です。「日曜日に出勤しなければいけない」、多くの場合日曜出勤しなくとも業務に影響がない、とすれば労働の束縛から解放されるために日曜日の出社は断る。それもまた信仰の決断です。「夫が病気で寝込んでいる」、夫の看護のために自分が必要だと思えば礼拝を休むこともまた信仰の行為です。礼拝を休んでも良い、しかし夫の枕元で聖書を共に読み、共に祈るならば、もっと良いのではと思います。
・私たちは心に「新しい契約」が書き込まれることを通して、「キリストの手紙」とさせられました。キリストにある者は、世に向かって神の霊によって書き送られた「キリストの手紙」です。世の人々は聖書ではなく、私たち一人ひとりの中にキリストを読んでいるのです。その中で私たちは安息日の意味、主の日をどのように守るべきかを考えていきます。
・カール・バルトは教会教義学の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題のもとに記し、さらに安息日を巡る問題を扱う章を「祝いと自由と喜びの日」として書き始めています。このことは安息日の戒めが本来私たちにとって自由を与える特別な日としての性格を持つことを示しています。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」と考えた時、それは私たちを縛る日になります。そうではなく、日曜日を「礼拝に参加することが出来る日」に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになるのではないでしょうか。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。この言葉はイエスが命をかけて戦い取られた福音であることを覚えたいと思います。