江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年4月1日説教(使徒言行録12:1-17、迫害の中で)

投稿日:2012年4月1日 更新日:

1.教会への迫害からの救済

・今日は4月1日、私たちは新しい年度の始まりを主日の礼拝で迎えることになりました。その私たちに読むように示されたが使徒言行録12章、エルサレム教会に加えられた迫害の記事です。2012年度は波乱の年になることを予告されているのでしょうか。記事を読んでいきます。イエスの復活により集められた教会は伝道を続け、日毎に教会に加えられる人々が増えて行きました。しかし次第にユダヤ教会からの迫害が強くなります。特に福音が国境を超え、ユダヤ人クリスチャンたちが異邦人らと食事を共にし、礼拝を一緒に守るようになると、「救いはユダヤ人のみ」と信じるユダヤ教保守派の人々は、教会を異端視するようになります。福音は国家や民族という枠を超える故に、国家と衝突し、時として国家が福音の迫害者になります。初代教会の迫害者になったのは、ヘロデ大王の孫ヘロデ・アグリッパでした。彼は正統派ユダヤ人の関心を買うために、使徒たちを迫害します。
・ルカは記します「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(12:1)。使徒ヤコブ、ゼベダイの子ヤコブが最初の殉教者になりました。紀元43年頃、イエスの十字架と復活から10数年が経った時です。やがて迫害の手はエルサレム教会の中心人物ペテロにも伸びます。ヘロデ王は除酵祭(過ぎ越し祭り)の時にペテロを捕らえ、祭りが終われば公開裁判を開き、処刑する方針を決めます。ルカは記します「それ(ヨハネの殺害)がユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」(12:3-4)。教会は権力者に逆らう手段を持っていません。しかし、教会は「彼(ペテロ)のために熱心な祈りを捧げた」とルカは記します。日本語聖書には訳されていませんが、原文では「しかし=de」と明記されています。「ペテロは牢獄に閉じ込められていた。しかし、教会は熱心に祈った」。教会はあきらめなかった。そうです、信仰者の共同体とはどのような状況の中でもあきらめない、希望を持ち続ける共同体なのです。
・そのペテロに不思議な業が起こり、彼は牢獄から救出されます。ルカは記します「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした・・・鎖が彼の手から外れ落ちた・・・第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った」(12:6-10)。神は人を用いて奇跡を起こされます。おそらくは兵士あるいは獄吏の中に信徒または同情者がいて、ペテロを牢獄から救い出したのでしょう。エウセビオス・教会史によれば先に殺されたヤコブの警護にあたっていた兵士がヤコブの態度に感動し、自らもキリスト者であることを告白して共に斬首された次第が語ってあります(ブルース・使徒行伝p271)。神がある人に働きかけてペテロを救済させた、そのような出来事が起こったと推察されます。
・ペテロは救出されましたが、これを教会の祈りに答えて神がペテロを解放されたと考えるべきではありません。何故なら、ヤコブ投獄の際にも教会は祈ったでしょうが、ヤコブは殺されました。またペテロ自身もこの10数年後にローマで殉教しています。ペテロは為すべき使命があった故に生かされ、ヤコブはその業を終えたゆえに永遠の眠りにつきました。奇跡は神の出来事であり、人間の出来事ではないことをわきまえるべきです。ある人々は言うでしょう「あなたに信仰があればあなたはいやされる」。私たちは反論します「いやしは神の権能であり、私たちの信仰や祈りの問題ではない」。人は使命が与えられている時はどのような危機の中にあっても死にません。言い換えれば、私たちが今生かされているのは私たちに使命が与えられていることを示します。ペテロはこの救済を通じてそれを理解しました。だから彼は言います「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ」(12:17)。

2.教会はそれにどう対応したのか

・解放されたペテロは教会の仲間が祈っている家に行きます。その家は「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」でした。このマルコ・ヨハネは後の福音書記者マルコです。マルコの家では仲間が集まってペテロのために祈っていました。しかしペテロがそこに行っても、人々はペテロの帰還を信じません。ルカは書きます「 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は『あなたは気が変になっているのだ』」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは『それはペトロを守る天使だろう』と言い出した」(12:13-15)。
・ルカは教会を美化せず、ありのままを書いています。教会の人々はペテロの救済を願って熱心に祈っていましたが、その祈りが叶えられるとは信じていなかったのです。人間の信仰とは本来そのようなものです。祈りながら、祈りが叶えられるとは思っていない。しかし、その不信仰な人間に神が働きかけられることを通して、信じる者とさせられていく。それが「信仰の体験」です。獄から解放されたペテロは仲間たちに無事を知らせると、すぐに他の場所に行きます。なおも捕らえられる危険性がありましたから、彼は地下活動に移ります。しかし今のペテロは以前のペテロとは違います。目の前に行われた奇跡(神の介入)を見て、今や確固たる使命感に支えられています。神は自分が伝道の使命を果たすために死の危機から救って下さった、そうである以上、自分は与えられた使命のために全力を尽くすし、その任務を達成しうるであろうと信じています。パウロも同じような確信を表明しています「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(�コリント1:10)。信仰は体験を通して真実なものになっていきます。

3.信じられない者が信じる者に変えられていく

・今日の招詞にヘブル11:1を選びました。次のような言葉です「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。ヘブル書は、アブラハムは信仰の父であり、サラは信仰の母であると誉め称えます。それは、アブラハムが100歳になり、サラが90歳になって、もう子を持つことが出来ない状況に置かれたにも拘わらず、「子を与える」との神の約束を信じ続けたからだとヘブル書は語ります(11:11「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである」)。
・ところが、創世記を読みますと、アブラハムとサラは、神の約束を信じ続けていなかったと思わせる記述があります。創世記18章は、アブラハムに主の使いが現れた記事を記します。アブラハムは旅人に食事の給仕をしますが、旅人の一人が言います「来年の春、私はかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(創世記18:10)。子を与えるという約束はこれまでも何度も与えられていましたが、実現しないうちに、アブラハムは100歳、妻サラは90歳になっていました。いまさら子を与えると言われても信じることは出来ません。創世記は、サラが信じなかったと明記します「サラは後ろの方の天幕の入口で聞いていた。アブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、私は衰え、主人もまた老人であるのに、私に楽しみなどありえようか」(18:10-12)。サラは信じませんでしたが、アブラハムもそうでした「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」(創世記17:17)。100歳の夫と90歳の妻にどうして子が生れようか、二人が信じることが出来なかったのは当然です。しかし主は言われます「神に不可能なことがあろうか」(創世記18:4)。やがて言葉通り、サラに子が与えられます。サラは喜び、子をイサク(=笑い、神は私に笑いを与えて下さった)と名づけました(創世記21:6)。
・創世記はアブラハムとサラが、神の約束を信じることが出来なかったことを隠しません。人間は、絶望的な状況に置かれた時、それでも約束を信じ続けることはできないのです。アブラハムとサラが「神には出来ないことはない」と信じるに到ったのは、奇跡としか思えない状況の中で子が与えられてからです。人間は本質的に不信仰であり、「神に出来ないことはない」と観念的に信じても、絶望的な状況の中では信じ切ることが出来ません。しかし、信じ切ることの出来ない人間に神の奇跡が与えられ、人は信じる者とされて行きます。獄中のペテロは、自分はやがて殺されるだろうと諦めていました。しかし神は救って下さった。この時、ペテロは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であることを知りました。ペテロの救済を祈っていた教会も、祈りながらも本当に実現するとは思っていなかった。しかし実現した。彼らもまた「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」ことだと知りました。奇跡を目の前に見た時、人は信仰者になるのです。
・信仰とは「信じることの出来ない不合理なことを、理性を殺して信じる」ことではありません。「ただ、信ぜよ」というのは本当の信仰ではありません。信仰とは、自分が不信仰であることを知らされ、それでも神は信じることの出来ない人間に恵みを与えられる、それを知ることから始まるのです。人間は「信仰するから救われる」のではなく、「救われたから信じる」のです。私たちも、ペテロや初代教会のような恵みの体験をしました。3年前には誰も私たちの教会堂が新しく建て直されるとは思ってもいなかった。願いはあったが資金的に無理だと思っていました。しかし建て直された。奇跡としか言いようがない。私たちは神の業を見せていただいた。だから信じるのです。このような体験をした私たちには、この2012年度が波乱に満ちた年になったとしても構いません。主はその波乱を通して私たちを恵まれると今は信じることができるからです。使徒12章の最後の言葉を読みましょう「神の言葉はますます栄え、広がって行った」(12:24)。教会の柱ヤコブが殺され、ペテロがいなくなっても、神の業は広がって行った。1年後、私たちも同じ感謝の言葉を述べることができると信じます。

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