江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年3月25日説教(使徒言行録10:9-23、違う人を受け入れる)

投稿日:2012年3月25日 更新日:

1.違う人を受け入れる困難

・今日、私たちは教会総会の時を持ちます。この時にコルネリウス回心の記事を読むように指示されました。
初代教会はユダヤ人以外の人々には伝道しませんでした(使徒11:19)。割礼を受けず、神の戒めを守らない異邦人をも、神が救われるとは思えなかったからです。しかし、教会の思いを変える出来事が起こりました。それが異邦人コルネリウスの回心です。使徒言行録は10~11章の2章を割いて、ローマ人の百人隊長コルネリウスの回心物語を記します。ただ一人の人の回心のために、聖書がこんなに長い紙面を割くのは異例です。それはこの事件が世界史的な出来事だったからです。すなわち、神はユダヤ人だけでなく全ての人の救いを望んでおられることが事実を持って示され、このことを通して、福音はユダヤ人のための民族宗教から、すべての人をも包み込む世界宗教に発展していきます。
・10章の最初から概略的に見ていきましょう。「カイサリアにコルネリウスという人がいた。『イタリア隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(10:1-2)。カイサリアにはローマ総督と軍隊が駐留し、ローマによるユダヤ支配の中心となった町です。その町に、コルネリウスという軍人がいました。彼はローマ人でしたが、聖書を読み、祈り、信仰心の厚い人でした。この人が祈っている時、主の使いが現れます「ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」(10:5)。コルネリウスは指示のままに、ペテロを迎えるための使者を送ります。
・同じころ、ヤッファの町にいたペテロにも幻が下ります。「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。“ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい”と言う声がした。ペトロは言った“主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません”。すると、また声が聞こえてきた“神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない”」(10:9-16)。ユダヤ人は清い食べ物と汚れた食べ物を分け、汚れたとされる食べ物は決して食べません。しかし、神は今ペテロに、「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました。ペテロが幻の意味を思い巡らしていた時、コルネリウスの使いが来ます。ペテロは、幻の意味が、「ユダヤ人が汚れた者として交わらない異邦人の家に行きなさい」ということだったと悟り、迎えの人たちと共にコルネリウスの家に赴きます。
・ペテロはコルネリウスに会い、彼が幻を聞いてペテロを招いた事を知り、この出会いは神が起こされたことを知りました。だから、ペテロは語ります「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(10:34)。「神は人を分け隔てなさらない」、簡単な言葉のようですが、実は重い言葉です。ユダヤ人は異邦人を「汚れた者」として嫌い、彼らとは交際しませんでした。そのユダヤ人ペテロが、神の働きかけの中に、異邦人コルネリウスに、福音を熱心に語って行きます。ペテロが語り続けていると、一同の上に聖霊が下りました。ペテロの言葉を聞いていた、コルネリウスとその家族が神を讃美し始めたのです。ペテロは言います「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受けるのを、一体だれが妨げることができますか」(10:47)。ペテロはコルネリウスと家族にバプテスマを授け、ここに初めて異邦人クリスチャンが生まれていきました。

2.その困難を聖霊は崩す

・コルネリウスの回心物語が教えることは、回心あるいは悔い改めと言う出来事は、当事者の信仰や人格によって生まれるものではないということです。コルネリウスは熱心な求道者でしたが、まだ割礼を受けていませんでした。信仰はありましたが、それを形あるものにはしていなかった、まだ傍観者に留まっていた。そのコルネリウスに聖霊が働きかけてペテロを招かせ、バプテスマまで導きました。神の働きかけを通して、コルネリウスは傍観者から主体者となります。主体者になる、これはとても大事なことです。福音の真理は導かれて歩み続ける中で明らかにされていきます。傍観者に留まる人には真理は開示されないのです。傍観者が主体者になる、その行為がバプテスマを受けることです。
・ペテロも聖霊に動かされて行為しています。ユダヤ人の彼にとって、異邦人の家を訪ね、彼らと食事を共にすることは、モーセの律法に反する行為でした。“異邦人と交わるな、交わればあなたも汚れる”と教えられて育ったペテロに、聖霊は「神が清めたものを、あなたが清くないと言ってはならない」と導きました。ペトロもコルネリウスも新しい一歩を踏み出しましたが、そのために多くのものを捨てなければなりませんでした。ペトロは律法に従った生活を捨て、そのことによって仲間のユダヤ人から批判を受けます。エルサレムに戻ったペテロは、教会の人たちから「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」と非難されます(11:3)。「あなたは父祖伝来の律法を破り、民族の伝統を汚した」と告発されているのです。コルネリウスもローマ人でありながら、ユダヤ人ペテロから洗礼を受けました。これはローマ社会で生きるコルネリウスに多くの困難をもたらす出来事です。何故ならば当時のローマはユダヤの支配者であり、コルネリウスはその支配機構の中心にいた軍人だったからです。私たちがバプテスマを受ける時にも同じ困難が生じます。日本でキリスト者として生きることは、少数者として生きることです。イエスは言われました「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(ヨハネ17:14)。私たちは世にありながら、世に属さない者として生きていきます。それにもかかわらず、神はバプテスマ決心者を起こして下さいます。聖霊の働きです。

3.異なる人を受け入れなさい

・今日の招詞にガラテヤ3:27-28を選びました。次のような言葉です「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。パウロは人間を区別する三つの大きな要素として、男と女の性の区別、奴隷と自由人の社会的身分の区別、ユダヤ人と異邦人の民族の区別を挙げています。性と身分と人種、この三つはいろいろな形で、人間同士の争いを招いてきましたし、これからも招くでしょう。しかし、パウロは、教会はこの差別を乗り越えることが出来るといいます。「キリスト・イエスにおいて一つ」になることが出来るからです。使徒言行録10章は、聖霊の導きによって、教会が異邦人差別を乗り越えることが出来たことを示しています。
・それにもかかわらず、教会はこの後も異邦人差別を続けます。エルサレム教会は「割礼なしに救いなし」として、その後も異邦人に割礼を受けるように強制します。パウロがガラテヤ書の中で、「キリストにおいては、ユダヤ人もギリシア人もない」とのべたのは、ガラテヤ教会の中に「割礼を受けてユダヤ人にならなければ救われない」と主張する人々がいたからです。コルネリウスにバプテスマを授けたペテロも、やがてエルサレム教会保守派の圧力で、無割礼の人と食事を共にするのを避けるようになります(ガラテヤ2:12)。また教会においては何の差別もあってはならないと言ったパウロ自身が、やがて女性差別的な発言を行うようになります(「女性のかしらは男性です」(1コリント11:3)、「婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」(同14:35))。このことが示しますことは、差別は人間の本質的な罪の一つであり、肉の体を持つ限りなくならないという事実です。私たちはこの事実を見つめた上で、「主において一つになる」ことを求めていく必要があります。
・人は異なる者を受け入れることが難しい存在であり、異なる者を差別し搾取する存在です。日本では、3Kと呼ばれる「きつい、汚い、危険」な仕事の多くを、アジアや南米から出稼ぎに来ている人々に行わせています。日本の中小企業は研修生という名目で中国から若い労働者を大量に受け入れ、彼らに法定賃金を下回る過酷労働を課しています。介護労働を外国人にさせようという動きもあります。介護は体力・気力を必要とする重労働ですが、賃金が安いため、日本人の介護労働希望者が少なくなり、政府は不足の労働力をアジア諸国から導入しようとしています。戦時中の日本は、韓国や中国から多くの労働者を強制連行して、鉱山や工場での重労働に従事させましたが、同じことが現在も行われているのです。私たちはこの現実を見つめる必要があります。この現実の中で、私たちは異なる人々とどのように交わればよいかを模索する必要があるのです。
・私たちの教会のある江戸川区には、数万人を超える外国の人々が住んでおられます。日本人と結婚されたフィリッピンの婦人たち、在日韓国の人々、さらには中国やインドから来られた人々です。多くの外国の方がこの地域に住んでおられるということは、私たちがこの外国の人々に対して伝道の責任があるということです。外国人伝道は容易なことではありません。言葉の壁だけでなく、習慣や考え方の相違があります。さらに、人々は聖書の解き明かしだけでなく、生活改善の問題も教会に求めて来られるでしょう。イエスが行われたようないやしの業です。それらの人々を教会に迎える時、混乱が生じると思います。違いが混乱を生みます。しかし、その混乱を通して、何かが生まれていきます。
・外国人伝道と同じように、あるいはさらに難しい問題はノンクリスチャンへの伝道です。ノンクリスチャンへの伝道は当たり前ではないか、積極的に行うべきだとの意見が大半だと思いますが、具体的になると多くの課題を抱えています。日本の教会は地域のお祭りに対して、それが神社のお祭故に、偶像礼拝だとして積極的には関わって来ませんでした。また仏教式の葬儀には参加しない方も多いでしょう。更に難しい問題は、教会での葬儀や結婚式を信徒以外の方に解放するかという問題です。葬儀や結婚式は信徒に限定すべきだとの意見もあるでしょう。しかし教会が自らの垣根を高くすることによって、地域社会から浮き上がってきたのは事実です。私たちは来年度の教会標語として、「福音を地域に」と掲げます。福音宣教のために必要であれば、クリスチャンでない方の葬儀や結婚式も積極的に受け入れていくのかどうか、今日の総会で議論していただきたいと思います。
・伝道とは、異質な人との出会いにより私たちが変えられ、その違いが豊かさとなる出来事です。私たちは何度も失敗して来ましたが、それでもこの課題に取り組んで行きたいと願います。そのためには、パウロのいう信仰の確信が必要です。パウロは言います「私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(1コリント12:13)。初代教会は異邦人伝道を自分たちの使命と考えて取り組みました。主イエスが言われたように「福音を地の果てまで伝える」ためです。今多くの福音を知らない人々が、あるいは寄留の人々が、この江戸川区におられます。この人々への福音宣教をこの教会の課題にしていきたいと心から願います。

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