1.ヨルダン川の渡河
・先週、私たちは申命記34章を読み、モーセが約束の地に入ることが出来ず、モアブの地で死んだことを学びました(申命記34:5)。共同体の指導者職はヨシュアに継承され、ヨシュアは民を率いて、いよいよ約束の地へ渡ろうとします。そこから今日読みますヨシュア記が始まります。しかし、約束の地は無人の地ではなく、先住民が住んでいます。約束の地に入るとは、「先住民と戦い、その土地を勝ち取る」ことです。そのため、民は戦いの準備をするように命じられます「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。おのおの食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る」(ヨシュア記1:11)。
・ヨシュアは約束の地に入る前に、斥候を派遣して敵の様子を探らせます。38年前にモーセは同じく斥候を派遣し、敵地を探らせました。その時は斥候が敵に怯えて報告を行い、民は恐れてエジプトに帰ろうと言いだし、神の怒りのために荒野に押し戻された歴史がありました。その時斥候に加わり、「主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(民数記14:9)と少数意見を主張したヨシュアが、今は指導者となっています。斥候からもたらされた報告は、「敵は我々を恐れている」というものでした(2:23-24)。時は熟しました。イスラエルは侵攻の準備を始め、約束の地を前にしたヨルダン川の岸辺まで来ました。
・民がヨルダン川の岸辺に立ったのは第一の月の10日(太陽暦4月)、川は雪解けの水と春の雨であふれていました。4万の兵をどのように渡河させるのか。ヨシュアは民に身を清めて、神のなさる業を待てと命じます。そして神から受けた言葉を民に伝えます「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け・・・生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる・・・主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」(3:9-13)。
・ヨシュアの命に従い、祭司たちはヨルダン川に足を踏み入れました。すると、川は上流でせき止められ、水が干上がり、民は対岸に渡ることが出来ました。葦の海の奇跡が再現されたのです。ヨルダン川の流れがせき止められるということは、昔からときどきありました。泥灰土の丘の中を侵食しながら流れるヨルダン川は、その丘の一部が崩落して流れがせき止められることが時々ありました。そのせき止めが今、目の前で起こったのです。民はこの奇跡を見て、主が共におられることを信じました。
2.ヨルダン川渡河の意味
・私たちは川がせき止められるという物語の不思議さに心を奪われますが、ヨシュア記が伝えようとしているのは、奇跡が起こったということではありません。何故なら、ヨルダン川は川幅30~40メートルの川に過ぎず、例え増水して水かさが増していたとしても、強いて渡れば渡れる川幅です。それにもかかわらず川がせき止められた、それは「主がそこにおられる」ことのしるしが与えられたことを意味しています。「恐れるな、私が共にいる。この先にどのような困難があろうとも共にいるから恐れることはない」と主は行為を持って示されたのです。
・だから主は言われます「川から石を取り、それをしるしとせよ」。ヨシュア記は記します「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。『民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい』」(4:1-3)。ヨシュアは石を集めて、礼拝をするように、民に命じます。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。それはあなたたちの間でしるしとなるであろう」(4:4-6)。しるしそのものが意味を持つのではありません。しるしを通して示された神の行為の中にこそ意味があります。
・ヨシュアは民が川を渡り終わったのを見て、祭司に水から上がるように命じ、列の先頭に立つように命じます。これからいよいよ約束の地を獲得する戦いが始まるのです。その戦いは、神の戦いですから、神が先頭に立たれます。そのしるしが神の言葉(十戒)を収めた契約の箱です。ヨシュア記は記します「主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた・・・その間に民は急いで川を渡った。民が皆、渡り終わると、主の箱と祭司たちとは民の先頭に立った」(4:10-11)。
3.私たちのヨルダン川
・今日の招詞にヨシュア記4:23-24を選びました。次のような言葉です「あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである」。祭司たちが川から上がると、ヨルダン川の流れは元に戻りました。ヨルダン川はたまたま止まったのではなく、主に依って止められたからです。しるしの意味がここにあります。出エジプトにおいて、葦の海が開かれたように、今度はヨルダン川も開かれた。「神が私たちと共におられるのだ」とヨシュアは述べます。
・この物語で大事なことは、「主が共におられる」ことをイスラエルの民が見たことです。そのことによってイスラエルの民は行く手にどのような困難があろうとも、主が共にいて下さるゆえに先に進むことが出来るとの確信を与えられました。そして民が将来に確信を持つ時、戦いは既に勝利しています。ヨシュア記は記します「ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちと、沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫け、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はいなかった」(5:1)。もう勝負はついているのです。
・ヨルダン川は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場所です。イエスの名はヘブライ語でヨシュアです。イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたという事実の奥に、イエスは新しいヨシュアであるという意味があります。マルコがイエスの洗礼について、「その水から上がられると」(マルコ1:10)と書く時、「第1の月の10日に民はヨルダン川から上がって」というヨシュア記4章19節を考えていたと思われます。イエスはかつてのヨシュアのようにヨルダン川を渡って、約束の地にご自分の民を導き入れるお方だという信仰がマルコにはあったのです。ヨルダン川でイエスが受けられた洗礼はイエスの新しい生涯の始まりでした。同じように、私たちが受ける洗礼も、私たちの新しい人生の出発点です。洗礼を受けるとは「向こう岸に渡る」ことです。荒野の旅を終えて約束の地に入ることです。向こう岸に渡っても悩みや苦しみが無くなるわけではありません。イスラエルの戦いはヨルダン川を渡るところから始まるのです。しかし主が共に渡って下さったという経験をした者は、例え行く手に困難があってもそれを乗り越えることが出来ます。パウロが言うように「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」(ローマ8:31)と信じることが出来るからです。
・洗礼を受けても苦しみや困難が無くなるわけではありません。しかし、苦しみのままに、悩みのままに、平安が与えられるという不思議な業を私たちは見ます。そのような方を紹介したいと思います。今年の神学校夏季講座は「苦難の意味」という主題での講義でした。受講者は単位を取るためにレポートを提出しますが、その中に、印象的なレポートがありました「私の長年の友人は、ある日突然、脊髄損傷のため首から下の運動機能を失ってしまった。ある朝、寝がえりを打った時に突然激しい痛みに襲われ、手足が急激に萎縮していく感覚を味わったという。どうしてなのかわからず、大学病院では何度も何度も同じ検査と質問の繰り返しで、先天的に脊髄の形が変形していたためであろうとの診断であったそうだ。彼女は一瞬にして歩くことも手で顔を拭くこともできなくなってしまった。おまけに四六時中、手足を襲う強い痺れに苦しめられるようになってしまった。二年近く入退院を繰返した後、自宅療養となった。ご主人にとっては明るく元気な妻を失ってしまい、さらに妻の介護のために仕事を失ってしまった。お子様方は頼りになる元気な母親をなくしてしまったし、お嬢さんは結婚する時期を失ってしまった。それぞれが期待していた未来の家族像も失ってしまった。彼女の苦しみは二重三重に続き、彼女はベッドに横になったまま17年間を過ごし、亡くなった」。何重もの苦難を報告者の友人は経験されたのです。このような人生に何の意味があるのだろうと私たちは思います。
・レポートは続きます「感謝なことに彼女はその少し前に信仰を持っていたから、その苦しさの中でも共に祈り感謝することができたが、体の苦しいことに変わりはなかった。彼女はいつも言っていた『辛い時や痛くてたまらない時は十字架のイエス様のことを思うの』。その肉体的な苦しさを私にいろんな例えで説明してくれた。鉛の板で覆われているような足の辛さ、剣山で刺されているような痛み、手には鉄のグローブをはめているような感じ等々。しかし不思議なことに動けない彼女のところに人が集まってきた。彼女は訪れた人が話すことをただ黙って聞いていた。辛い状態にある彼女ではあったが、自分の体験を通して心のひだが深くなり、相手の気持ちを誰よりも良くわかり、受け止めてあげることができたのであろう。誰もが彼女に信頼を置いていたのである。こんなに苦しい状態で、人はどうしてこんなに強く、優しくなれるのであろうかと思った」。
・報告者は最後に書きます「人の価値を決めるのは態度価値であると心理学者フランクルは言っているが、与えられたどうしようもない苦しい状況において彼女がとった態度こそ価値のあるものであった。『苦しみにあった事は私には恵みでした』(詩編119:71)という彼女の声が聞こえてきそうである」。この姉妹はヨルダン川を超えて向こう岸に渡ったのです。「神共にいます」ことを信じた時、イスラエルは約束の地に進むことが出来ました。「神共にいます」ことを信じた時、姉妹の難病が恵みに変わって行きました。ここにヨルダン川の奇跡を超える大いなる神の業があるのです。