江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年10月16日説教(民数記22:22-35、目を開いて見よ)

投稿日:2011年10月16日 更新日:

1.カデシからモアブ平野へ

・民数記の2回目です。今日私たちは「ロバが口を開いて人間を諌めた」という珍しい物語を読みます。ただ突然にこの個所を読んでも理解が難しいので、出来事の経緯を確認した上で、今日の聖書箇所である民数記22章を読んでいきます。先週、私たちはイスラエルの民が40年間の荒野の放浪を経て、「約束の地」の入り口に当たるカデシに着いた記事を読みました(民数記20章)。そのまま北上すれば約束の地に至りますが、主はヨルダン川の東部を回り、そこから約束の地に入るように導かれました。そのためには死海南部にあるエドム、モアブを通る必要があり、モーセはエドム王に使者を送り、エドム領内の通過を求めます(20:14)。しかし遊牧の民イスラエルの襲撃を恐れたエドム王はこれを拒否し、武力を持って阻止しようとします。モーセはエドムが同族の国(ヤコブの兄エソウの子孫たちが建国した)であったことより、武力対決を回避し、エドム領土を避けて南下します。すぐにも約束の地に入れると期待した民衆はこの迂回に不満を持ち、反乱を起しますが、主の介入により収まるという出来事がこの間にありました(20:4-9)。
・エドムを迂回したイスラエルはモアブの地に沿って北上します。モアブもまたイスラエルの同族(アブラハムの甥ロトの子孫の国)であったため、これとの争いを避けたのです。こうして彼らはモアブの北、アモリ人の地に到着します。イスラエルはアモリ人の地を平和裏に通過し、ヨルダン川を渡る予定でしたが、アモリ人たちが襲撃し、やむなく応戦して勝利を収め、その土地を占領して、そこに宿営を設けます(21:31)。この事態は隣接するモアブ王国には脅威でした。武装した遊牧民が領土の北辺を占領し、いつ自分たちを襲ってくるかもしれないと彼らは危惧したのです「イスラエルの人々は更に進んで、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野に宿営した。ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に対してした事をことごとく見た。モアブは、このおびただしい数の民に恐れを抱いていた。モアブはイスラエルの人々の前に気力もうせ、ミディアン人の長老たちに『今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている』と言った。当時、ツィポルの子バラクがモアブ王であった」(22:1-4)。武力でイスラエルを撃退することはできないと感じたモアブ王は、占い師バラムの呪いで彼らを撃退しようとします。それが今日読みます22章記事です。

2.預言者バラム

・その地に評判の預言者バラムがいました。バラムは職業的預言者、あるいは先見者と呼ばれ、依頼を受けて敵を呪うのが仕事で、その預言の効能は評判になっており、「民を飲み込む者」とあだ名されていたと言われています(バラムには飲む、飲み込むの意味がある)。モアブ王は彼を、「あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われる」(22:6)と高く評価しています。モアブ王は武力ではイスラエルにかなわないと見て、呪いの力で彼らを撃退しようとしたのです。古代の人々は、神は預言者を通して語られ、聖なる預言者の祈りは神を動かす力を持つと信じていました。
・王の使いがバラムを訪れた時、バラムは「主に伺いを立ててから返事しよう」と言い、部屋に籠って、主に祈ります「モアブの王、ツィポルの子バラクが私に人を遣わして、『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面を覆っている。今すぐに来て、私のために彼らに呪いをかけてもらいたい。そうすれば、私はこれと戦って、追い出すことができるだろう』と申しました」(22:10-11)。それに対して、主は「行ってはならない」と彼に言われます「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」(22:12)。「イスラエルは私の民であり、私が祝福した者をあなたが呪うことは許さない」と神は言われたのです。その言葉を受け、バラムはモアブの使いに同行することを断ります(22:13)。
・バラムの断りを聞いたモアブ王は報酬が低すぎたからだと判断し、もう一度バラムの元に使者を送ります。今回の報酬は「家に満ちるほどの金銀」(22:18)でした。バラムの心は動きます。彼は、神の御心を知りながら、再度「行っても良いですか」と神に問います。「行っても良いですか」、「ぜひ行きたいのです」とバラムは懇願しました。主はバラムの貪欲を知り、その欲望を用いて御業を行うために、彼に「行っても良い」と返事をされます「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、私があなたに告げることだけを行わねばならない」(22:20)。バラムは朝起きるとロバに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけました。
・神はバラムに行っても良いと言われましたが、それはバラムを用いて御業をされるためでした。そのため、主の使いを送り、バラムの行く手を妨げられ、御心を知らされます。民数記は記します「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはロバに乗り、二人の若者を従えていた。主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たロバは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはロバを打って、道に戻そうとした」(22:22-23)。
・欲に目がくらんだバラムには主の使いが見えません。そのためロバを何度も打ち、たまりかねたロバが口を開いて文句を言います。「主がそのとき、ロバの口を開かれたので、ロバはバラムに言った『私があなたに何をしたというのですか。三度も私を打つとは』(22:28)。主はこの時、バラムの目を開かれました。「彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した」(22:31)。バラムはこの出来事を通して、自分の役割を知ります。そして、「主が語られたこと以外は語らない」と誓います(22:34-35)
・このバラムをどう評価するか、聖書の記述は分かれます。預言者ミカはバラムをモアブ王のたくらみを阻止した預言者として高く評価しています「わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」(ミカ6:5)。他方、申命記記者は否定的です「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない・・・彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである」(申命記23:4-5)。新約記者は概ね否定的です。ペテロ第二の手紙は言います「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないロバが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです」。またユダの手紙の著者は言います「不幸な者たちです。彼らはカインの道をたどり、金もうけのためにバラムの迷いに陥り、コラの反逆によって滅んでしまうのです」(ユダ1:11)。
・聖書で動物が語る個所は2か所のみです。一つはエデンの園でエバを誘惑するヘビの語りかけです。もう一つがこの個所です。欲に目がくらんだ者は、ロバにも笑われる愚かな行為をします。バラムと同様、人は思わぬ障害に出会って良心を覚まされ、平素は卑しめているロバの如きものを通して理性を取り戻すことがあります。神の御心を無視して自分の欲望を優先させた時、必ずそこに混乱が生じ、人はその混乱を通じて神の御心を知り、その御業を行う者になる、バラムとロバの記事はそのことを私たちに教えるのではないでしょうか。

3.魔術師から預言者へ

・このバラムがその後どのような行為をしたのか、少し先の方まで読んでいきます。イスラエルを呪うために連れて来られた預言者バラムは、バモト・バアル(バアルの高い山)に上り、礼拝を始めます。祭壇に雄牛と雄羊を捧げて、モアブ王バラクと共に自分たちの神バアルを拝んだのです。しかし、この偶像礼拝の中にも神が関与され、神はバラムに呪いではなく、祝福の言葉を語らせます。バラムは語ります「バラクはアラムから、モアブの王は東の山々から私を連れて来た。来て、『私のためにヤコブを呪え。来て、イスラエルを罵れ』。神が呪いをかけぬものに、どうして私が呪いをかけられよう。主が罵らぬものを、どうして私が罵れよう」(23:7-8)。神が呪われぬものを人は呪うことが出来ないのです。呪いを期待したモアブ王は祝福の言葉を聞いて、驚き、再度バラムにイスラエルを呪うように命じ、別の場所に連れて行きますが、結果は同じでした。
・モアブ王は、眼前の敵イスラエルを呪うように、魔術師バラムを雇い、バラムはイスラエルを呪うために魔術を行おうとしますが、彼はイスラエルを祝福する言葉しか言えませんでした。バラムは三度目も試みますが、彼は神が命じられたままを語るしかありませんでした。魔術師が預言者に変えられていったのです。そして最後に彼は預言します。それが民数記24:17、今日の招詞の言葉です。「私には彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。一つの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕く」。この預言はダビデ王の時に実現し、ダビデはモアブを打ち、アラムを征服し、エドムをも支配下に置きました。新約時代の人々はこの預言の中にメシア=キリストの到来を見ました。バラムの物語にはイスラエルは、直接は登場しません。イスラエル人の知らない所でイスラエルのための戦いを主が行っておられる。そのことを言いたくて、民数記の記者はこの記事をここに挿入したのでしょう。
・魔術師バラムは欲に目がくらみ、モアブ王に雇われてイスラエルを呪う仕事を引き受けますが、彼が為しえたことは、イスラエルを祝福することでした。彼はモアブ王から金銀をもらうことはできませんでしたが、ダビデを預言し、キリストの到来を知らせるという栄誉を受けることが出来ました。神はバラムのような者を用いてさえ、その御業を為されるのです。神は私たちの想像を超える出来事を通して、ご自分の民を祝福されます。私たちは新会堂が工事中、どこで礼拝をすべきか、いろいろな可能性を探りました。近くの教会を午後からお借りして礼拝を持つ案も、ビルの一室を仮会堂として借りる案も出ました。どれも一長一短で、どうしようかと悩んでいる時に、西尾家から家のリビングを改造して広くするから、そこで礼拝したらどうかとのお申し出を受け、この西尾家で9ヶ月間礼拝を捧げて来ました。神はこの9ヶ月間私たちを西尾家の宿営で守って下さり、一人も散らされることはありませんでした。ちょうど、イスラエルの民が約束の地を前に、モアブの平野で養われたように、です。次週から新会堂での礼拝が始まります。私たちの新しい出発です。最後に、満願の感謝を西尾家に捧げたいと思います。

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