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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年4月18日説教(マタイ5:1-12、心の貧しい人々は幸いである)

投稿日:2010年4月18日 更新日:

1.山上の説教

・イエスはガリラヤで宣教の業を始められました。その時のイエスの言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。「天の国」、イエスは「神の国」と言われました(マルコ1:15)。神の国、神の支配される時が近づいたとイエスは言われて、その宣教の業をお始めになりました。マタイは記します「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4:23)。イエスの宣教は、「御国の福音を宣べ伝える」ことと、「病気や患いを癒す」こと、この二つが働きの中心でした。その伝えられた「御国の福音」とは何か、マタイはそれを「山上の説教」として、私たちに提示します。それが今日読みますマタイ5章の箇所です。
・イエスは多くの人々の病気や患いを癒され、悪霊を追い出されました。そのイエスの力ある業を見て、大勢の群衆がイエスのもとにやってきます。マタイは記します「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(5:1-2)。最初にイエスは人々を祝福して言われます「「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:3)。イエスは「御国の福音」を、「幸いだ」という祝福の言葉で語り始められました。福音は「良き知らせ」なのです。
・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスのもとに集まってきた大勢の人々も幸福を求めていました。ある者は、長い間苦しんでいる病気を治してもらいたくて来たのでしょう。別の人は食べるものもない貧乏から解放されたいと集まって来ました。精神的な悩みを持つ人は慰めてもらいたくて来たのかもしれません。彼らはいずれも現在の情況さえ変れば、今のこの苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれると思っていました。その彼らにイエスは「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いである。あなた方は悲しんでいる、しかし悲しんでいる者が幸いなのだ」と言われました。聞いていた弟子たちも群衆もイエスの言葉を聞いてびっくりし、またがっかりしたでしょう。貧しいことが幸いであり、悲しむことが良いことであるとはとても思えなかったからです。
・私たちは思います「何故貧しい者が幸いなのか、貧しい者が富むようになることが幸いなのではないか。悲しんでいる者の悲しみが取り除かれることこそ幸いと言えるのではないか。地を継ぐのは力の強い者であって、柔和な者はこの世では捨てられる。憐れみ深いようなことをしていたら社会の落伍者になってしまうし、心が清いということも世の中では通用しないだろう」。イエスはここで、世の中では通用しないことを言っておられます。何故でしょうか。それが今日聞きたいメッセージです。

2.心の貧しい人々は幸いである

・イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言われました。ここでの「貧しい人々」には、ギリシャ語のプトーコスという言葉が用いられています。ヘブル語=アーニー(物乞い)、ダル(みすぼらしい)のギリシャ語訳で極貧者、物乞いを意味しています。イエスは物乞いを必要とするような貧しい人々を祝福されたのです。そしてイエスは「悲しむ人々」を祝福され(5:4)、「義に飢え渇く人々」を祝福されました(5:6)。何故、「貧しい」「悲しい」、「飢え渇く」等の、この世的に見れば災いとなる事柄を、「幸い」とイエスは言われたのでしょうか。ここでは、貧しい者が富むようになるから幸いだとは言われていないことに留意すべきです。貧しい者には「天の国が与えられる」から幸いだといわれています。何故貧しい者には天の国が与えられるのでしょうか。
・山上の説教には、このマタイ版の他に、ルカ版があり、ルカ版では四つの祝福の後に四つの災いが挙げられています。ルカ版山上の説教は記します「富んでいるあなた方は不幸である」(6:24)、「満腹しているあなた方は不幸である」(6:25)、「今笑っている人々は不幸である」(6:25)。ルカでは、この世では幸福と定義付けられるべき、富や豊富な食物や笑いが災いの対象とされています。その理由をルカは言います「あなた方はもう慰めを受けている」(6:24)。富んでいる者、満たされている者は、財産やその他のものを多く持つ故に、神を必要としません。彼は既に慰め=拠り頼むものを持っている故に、神に叫ばず、その結果神に出会うことはない。だから不幸なのだと言われています。イエスは別のところで次のように言われています「金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(19:23-24)。イエスははっきりとこの世の価値観との決別を言われているのです。
・人間の幸せとは何なのでしょうか。カール・ブッセの歌った「山のあなたの空遠く」という詩があります。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああ、われ人ととめ行きて、涙さしぐみ返り来ぬ。山のあなたになほ遠く、幸い住むと人の言う」。この詩が歌うのは幸福とは空しいものだということです。人はいつも満たされない、何が与えられても不満が残る、そのうちに年をとり、体が衰え、全てに疲れを覚えるようになった時、「ああ、あの時が幸福だったのか」と振り返る。しかし、振り返った時にはそれは既に過去の出来事であり、懐かしむだけのこと、幸福とはこんなにもはかないものか、多分そういう意味の詩でしょう。
・しかしイエスは人間の幸福とはそのようなものではないと言われています。現在がどういう情況であれ、それを神から与えられた祝福として受け取る時、人は満たされると言われます。「心の貧しい者」はこの世に究極の救いがないことを知るから、この世の栄誉や成功を求めません。「悲しむ者」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣くことが出来ます。「柔和な者」は自らの力に頼らないから、そこには他者に対する憎しみや報復も生れません。「義に餓え渇く者」は神の支配を待ち望み、その日は来ると信じる故に、現在の不正に負けません。イエスが言われたことには二つの特徴があると思います。一つは思いが自分ではなく他者に向かう、もう一つは思いが現在ではなく、将来に向かうことです。
・それに対して、人間の求める幸福は、思いが自己に、そして現在に集中します。世の人々が求める幸福は、富であり、健康であり、成功であり、栄誉でありましょう。それらは全て自己の為のものです。私の富、私の健康、私の成功、私の栄誉です。そして、誰もが欲しがるから、そこに競争が起こり、競争があれば勝者と共に敗者が生れます。一人が富を得るということは、他の多くの人は富を得られないことを意味します。健康が幸福の指標になる時、健康でない者、病気や障害をもっている人は不幸にならざるを得ません。突き詰めてみれば、この世の幸福は他者の犠牲の上に成り立っていることに気づきます。その時、幸福は空間的広がりを持ちません。
・また世の幸福は時間的有限性を持ちます。現在は健康であっても、その健康はやがて崩れます。勝者も何時かは敗者になります。現在の幸福のみを求める時、その幸福が何時崩されるのか、常に不安と隣り合わせでの人生になり、そこには平安はありません。世の幸福は空間的広がりを持たず、また時間的有限性を持つのです。このような刹那的なものが幸福なのでしょうか。私たちはイエスの言われる幸福、「貧しい者、悲しむ者、餓え渇く者こそ幸いである」という言葉は非現実的だと思ってきましたが、この世の幸福、富や健康や成功や栄誉がこのようにはかないものであるとしたら、イエスの言われる幸福こそ現実的なのではないかと思います。

3.私たちにとってこの言葉は何なのか。

・今日の招詞として、イザヤ61:1を選びました。次のような言葉です「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。
・この個所は、イエスが宣教の始めに故郷ナザレの会堂で読まれた聖書箇所です(ルカ4:18)。イエスがイザヤ書を読み席に着かれると、会堂にいるすべての人の目が、イエスに注がれました。何事かを期待する目でした。当時のユダヤの人々は約束の成就を待ち望んでいました。ユダヤは、ローマの植民地であり、ローマへの税金と、ローマが任命した領主への税金の二重の税の取り立てがあり、払えなければ妻や子を売っても払い、それでも払えなければ投獄される現実がありました。また、多くの人々は自分の土地を持たない小作人であり、収穫の半分以上が小作料として取り上げられました。ですから小作人の手元に残るものは少なく、豊作の時でさえ食べてゆくのがやっとで、凶作になれば飢え、病気になれば死ぬばかりの生活でした。ですから彼らはひたすら救い主を待ち望み、この生活が変えられる日を待望していました。その彼らが注目する中で、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話されました。救いが今ここに来たと宣言されたのです。
・今、日本の社会は「生きづらい」社会になっているように思えます。「生きづらさについて」という光文社新書を読みましたが、その中で、著者・萱野稔人(かやの・としひと)さんは次のように言います「精神的な『生きづらさ』のなかに、すでに社会的な『生きづらさ』の要素がある。たとえば貧困や不安定労働における『生きづらさ』は、たんにお金がないから生きづらい、ということだけにとどまらず、社会からまともに扱われない、居場所がないといった生きづらさも含まれています」。
・生きづらさもたらす要因の一つが社会における市場経済化の進展です。国や地域を越えた企業間競争が強まり、企業は生き残るため、人件費を圧縮し、臨時や派遣社員を増やしています。臨時や派遣では生計を営むに足る収入を得ることが出来ませんが、企業が生き残るためには不安定雇用の人が増えてもかまわないという考えです。また数が減った正社員は長時間労働を強いられ、ストレスでうつになる人が増えています。生産性に寄与しない中高年者はリストラの名の下で退職を強制され、生活基盤が崩壊しています。社会の働き手である男性が追い詰められてくると、影響は家族全体に及び、男も女も子どもも「生きづらい」社会になっています。そして、経済的にも精神的にも追い詰められた人たちの一部が、「生きるのがいやになった」として自殺したり、犯罪に走ったりしています。
・敗者を追い詰める社会、犠牲の血を流すことによって自らが生きようという社会、現代社会はまだイエスの解放の福音を知りません。キリストが死なれて2000年が経つのに、この社会は、今でも十字架の贖罪の意味を知りません。その中で、キリストの贖いを通して解放の福音を知った、私たちの生き方が問われてきます。いろいろな生き方があります。「人として生きる人生」、自己実現のために生きる人生もあります。しかしイエスに出会った私たちは新しい生き方、「人を生かす人生」、「人を生む人生」を歩むように招かれています。勝つことを求めない、他者と共存する生き方です。それは人生をあきらめた生き方ではなく、最も良い人生を歩むために、他者に仕えていく人生です。
・私たちはいつも「人から愛されたい、人から認められたい、自分の存在価値を示したい」と願っています。そこに不幸の原因があります。人から愛されることが難しければ人を愛していく。人から認められることが難しいならば人の良い点を見出し認めていく。イエスが言われたように「受けるよりも与えるほうが幸い」(使徒20:35)なのです。また旧約の詩人は歌います「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」(伝道の書11:1、口語訳)。イエスはそのためにご自分の命を捧げられました。だから私たちも弱肉強食の世界において、イエスにより贖われた命を他者のために用いていくのです。そのような決心に招かれているのです。

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