1.マリアのエリサベト訪問
・クリスマス礼拝の時を迎えました。神の子イエスの生誕をお祝いするときです。今日、与えられた聖書箇所はルカ1:39~45、「マリアのエリサベト訪問」と呼ばれる箇所です。ルカはまず、洗礼者ヨハネの父ザカリアに天使ガブリエルが現れ、高齢の妻エリサベトが身ごもったという話を伝えます(1:5-25)。そして、6ヶ月目に同じ天使ガブリエルは、ガリラヤの少女マリアに対して、彼女が神の子の母となることを告げます(1:26-38)。きょうの箇所は、この2人の女性が会う場面です。
・エリサベトは長い間子が与えられず、しかも高齢になっていましたので、もう子を持つことをあきらめていました。ところがそのエリサベトが、やがて洗礼者ヨハネとなる赤子を身ごもります。人間的には不可能と思われることが起きた、洗礼者ヨハネの生誕には神の力が働いたとルカは理解しています。マリアもそうです。彼女はヨセフと結婚する前に、聖霊によって子を身ごもったとルカは記します。人間的には信じられないこと、だからマリアは言います「「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。
・この不思議な体験をした二人の女性が今ここに出会っています。「マリアとエリサベトは親類であった」とありますから、恐らくエリサベトはマリアの叔母さんだったのでしょう。高齢になった叔母さんが子を身ごもった、そして自分も信じがたいあり方で子を身ごもった、その喜びと不安を分かち合うために、マリアが叔母さんの家を訪れたのでしょう。エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(1:42)と言います。「最も祝福された女性」との意味です。エリサベトは自分の身に起こった不思議な出来事がマリアにも起こったことを聞き、彼女を祝福します。この祝福が後に有名なアヴェ・マリアとなります。「恵まれた女よ、おめでとう」という歌の前半は、このエリサベトの言葉から採られています。
・その時、エリサベトの胎内の子が「喜んで躍った」とルカは記します。ルカは成人した後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が、このマリアとエリサベトの会話の中に先取りされていると理解しています。先駆者ヨハネと救い主イエスはすでに生誕の前から関係があったというのです。不思議な出来事です。エリサベトは告げます「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(1:45)。お互いにとって、この懐妊を受け入れることは非常に勇気のいる事柄であったからです。どういう風に勇気のいる事柄だったのでしょうか。
2.聖霊による懐妊
・エリサベトに子が与えられる経緯をルカは1:5-25に記します。エルサレム神殿の祭司であったゼカリアに「妻エリサベトが懐妊して、預言者となるべき子が与えられる」との天使の告知がありますが、ゼカリアは妻が不妊の女であり、もう老齢になっていたので、これを信じません。しかし告知どおりにエリサベトは懐妊します。彼女は主を賛美して言います「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(1:25)。ユダヤ社会では子を生めない女性は恥だと考えられていました。今まで子をもてなかったことでエリサベトがどのように苦しんだか、その苦しみがこの言葉の背後にあります。
・それから6ヶ月後、今度はナザレの少女マリアに主の霊が現れます「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)。天使はマリアに伝えます「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1:31)。イエス、へブル語ヨシュア、神は救いと言う意味です。未婚のマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられます。マリアはこの知らせを聞いて喜ぶよりも困ったのではないかと思います。
・婚約中の女性が婚約相手以外の子を産む、それは人の眼からみれば不倫を犯したことになります。現に婚約者ヨセフもそう思い、マリアを密かに離別しようとします(マタイ1:18-19)。マリアは戸惑い、抗議します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。口語訳は「私にはまだ夫がありませんのに」と訳します。夫なしに子を産む、社会の差別と偏見の中で身ごもることは、現在でも大変なことですが、当時はもっと大変でした。当時の律法は不倫を犯した者は石打の刑にすると定めていたからです(申命記22:23-24)。
・天使は答えます「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神に出来ないことは何一つない」(1:35-37)。「神に出来ないことは一つもない」、その言葉を受けて、マリアはためらいながらも答えます「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。何故私にこのようなことが起こるのか私にはわかりません。わかりませんが、あなたがそう言われるのであれば受入れますとマリアは答えます。
3.困難を超えて
・今日の招詞としてルカ22:42を選びました。次のような言葉です「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。イエスが十字架につけられる前日にゲッセマネの園で祈られた言葉です。神はイエスに十字架で死ぬことを求めておられました。しかし、イエスの若い肉体は生きることを欲しています。また十字架に死ぬことが人々を救うのか、生きていてこそ神の子としての働きがあるのではないかとイエスは思われたかもしれません。イエスは「御心なら、この杯を取りのけて下さい」と求められますが、神の応答はありません。イエスは、最後には、「御心のままに行ってください」と祈られます。マリアの答え「お言葉どおり、この身に成りますように」と同じ言葉がイエスの口から出ています。今は理解できなくとも、神がそれを良しとされるのならば受け入れていくという信仰です。
・「神にできないことはない」、エリサベトとマリアの二人はこの言葉を受け入れて、今お互いに出会っています。その出会いの中で、エリサベトは叫びます「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。この物語は私たちに大切なメッセージを与えます。その一つは、「子が与えられることは神の祝福の業だ」ということです。ユダヤ人は「子どもは父と母と神の霊から生まれる」と理解しました。現代の私たちは、「子は与えられるものではなく、作るものだ」と考えています。「作る」、そこには神はいませんから、作るのをやめる=人工妊娠中絶もまた人間の自由となります。統計によりますと、日本での妊娠中絶は年間27万件、100件の懐妊のうち25件は中絶という形で、生まれるべき命が闇から闇に葬り去られています。「子どもは父と母と神の霊から生まれる」ことの大事さを今日、再確認したいと思います。
・もう一つのメッセージは「神にできないことはない」という信仰です。エリサベトもマリアも信じがたい言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。そこから偉大な物語が始まったのです。「神がなされるのであれば、そこから出てくるすべての問題も神が解決してくださる」、あなたはそれを信じるかが問われているのです。この同じ問いが主題になっているのが、曽野綾子の小説「哀歌」です。物語はアフリカの国ルワンダに赴任した一人の修道女の物語です。主人公の鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任します。彼女は、教会や小中学校を併設する修道院で、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をします。ところがルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の少数民族ツチ族に対する集団虐殺が始まります。フツ族民兵は軍を後ろ盾にツチ族への暴行、虐殺、略奪を開始し、避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くします。その混乱のなかで修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、そのことが原因で妊娠します。彼女は身も心も疲弊しきって日本に帰国しますが、修道会は妊娠した修道女に冷淡であり、春菜はどうしてよいかわかりません。
・主人公春菜は、最初は妊娠中絶を考えます。「あれは悪夢だった。悪夢を悪夢として処理してもよいのではないか」、暴行を受けて妊娠した子を中絶することは誰も非難しませんし、中絶さえすれば、「何事も無かった」ように生きていくことが出来ます。他方、子を中絶しない場合、生まれる子は「皮膚の色が黒い子」となり、そのような混血児を抱えて日本社会で生きていくことは大変なことです。しかし相談した神父の言葉、「神は御自分で為されたことには、必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」という信仰が春菜の気持ちを変えて生きます。神は私にこの子を与えて下さった、それが納得できない形で与えられたにせよ、この子と共に暮らそう、そのことによって不利益を受けるのであれば受けていこうと決意します。
・神父の言葉を契機に、考えの中心点が自己から他者(この場合はおなかの子)に変えられていきます。彼女の決断はこの世の基準では愚かな決断になるでしょう。しかし信仰の決断としては別の評価が成立します。彼女はおなかの子を、自分に与えられたものとして生きていくことを決意したのです。そのことによって不利益を受ける=現在の自分に死ぬことは、無意味なことではありません。イエスは言われました「私は命を、再び受けるために、捨てる」。現在に死ぬことは将来に生きるためなのです。イエスは十字架を通して、すなわち現在を死ぬことを通して、復活されました。十字架なしには復活はないです。弱い私たちも現在与えられた十字架を担って死ぬことにより、新しい命に生きる者と変えられるのです。イエスは十字架で死ぬために、クリスマスに来られた、その死により私たちに命が与えられた、そのことを今年のクリスマスは覚えましょう。