江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年10月4日(マルコ10:1-12、結婚と離婚、聖書は何を語るのか)

投稿日:2009年10月4日 更新日:

1.結婚と離婚についてのイエスの教え

・マルコ10章は結婚と離婚についてのイエスの教えを記しています。ここでイエスが言われた言葉「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」は、過去2000年間、家族制度についての規範となってきました。カトリック教会はイエスの言葉を絶対的な神の戒めとして、一切の離婚を禁じてきました。他方、16世紀に生まれたプロテスタント教会においては、イエスの言葉を霊的に受け止め、「夫婦が内面的に深く結ばれてこそ結婚であり、夫婦の愛情が崩壊している時はその限りではない」として、離婚を認めてきました。同じ言葉をめぐって、カトリック教会とプロテスタント教会では正反対の生き方が示されています。どちらが正しいのか、そもそもイエスはどういう意味で言われたのか、それを知ることが今日の主題です。
・10章の本文を読んで行きます。イエスがガリラヤを去ってユダヤ地方に入られた時、そこに大勢の人々が集まってきて、イエスに教えを請いました。その中にイエスに敵対するパリサイ派の人々もいて、イエスを罠にかけようとして離縁について尋ねてきました「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(10:2)。律法の立場からは離縁が許されていました。それを知っているパリサイ人がこのような質問をしたのは、イエスが姦淫に対して厳しい態度を取っておられることを聞き知って、イエスから「離縁は許されない」という言葉を引き出し、イエスが律法の教えに従っていないことを明らかにするためでした。
・この仕掛けられた罠をイエスは見破られ、逆に質問されます「モーセはあなたたちに何と命じたか」(10:3)。パリサイ人は答えます「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(10:4)。パリサイ人の答えの根拠となった規定は申命記24:1です「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。この「妻に恥ずべきことを見いだし」という離婚理由について、ユダヤ教のラビたちの間で論争があり、「姦通等の不品行だけに限るべきだ」と厳格に解釈するシャンマイ学派と、「食物を焦がす」ことまで含めて広く解釈するヒレル学派が対立していました。支持が集まっていたヒレル派の考え方では、夫が妻を嫌になればなればいつでも離縁することが出来たのです。
・それに対してイエスは厳しい言葉を返されます。それが10:5以下の言葉です「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」。神は人を男と女に造られ、男女の交わりを通して命が継承されていくようにされた。「人が一人でいるのは良くない」から「彼に合う、助ける者を造ろう」と神は言われた(創世記2:18)。その神の御心をあなた方はないがしろにして、「妻が年老いたので若い妻を娶りたい」とか、「他の女性の方が好ましくなったので離縁したい」とかいう人間の掟を作り上げている。それが神の御心ではないことは明らかだ。神が望んでおられることは、「二人が一体となって生きる」こと、「神の前に対等で平等な存在として生きる」ことだ。だから「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(10:9)。留意すべきは、イエスがここで「離婚の絶対禁止」を言われているのではなく、「男の身勝手な行為によって経済的、社会的困窮に妻を追いやるような離婚は許されない」ということです。当時の女性は経済的には夫に頼って生きていましたから、実際に夫に追い出され、路頭に迷う多くの妻たちをイエスは目にされ、「そのような勝手を神は許されない」とされたのです。

2.イエスの言葉を倫理化してはいけない

・それ以上に私たちが注目すべきは、イエスは決して倫理を説かれたのではなく、福音を説かれたということです。マルコは「小さき者をつまずかせるな」、「小さき者を大事にせよ」とイエスが言われたことを記録しています。その文脈の中で、小さき者をつまずかせるような、身勝手な離婚をイエスは禁止されたのです。イエスの時代は圧倒的な男性優位社会であり、妻は夫と離れては生活していくことが出来なかった。だから離縁にしても妻の側からの申し出や協議離縁等はありえず、離縁といえば「夫が妻を追い出す」ことでした。その文脈の中で語られた「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」を、状況のまるで異なる現代に適用して離婚を禁止するのは、このパリサイ人と同じ過ち、すなわち「神の御心をないがしろにする」行為になりかねないです。
・カトリック教会はイエスの教えを倫理として受取り、離婚を禁止しますが、このことによって多くの弊害が生じています。ヨーロッパのカトリック国、フランスやイタリアで結婚しない人たちが増えているのです。若者たちは言います「一度結婚したら離婚できないのであれば、結婚しないほうが良い」。その結果増えているのが同棲です。同棲と結婚と何が異なるのか、結婚届という一枚の紙を行政当局に出すか出さないかの違いです。しかし、この「紙一枚」が人の生き方を大きく変えます。人間が単に、肉体的、生物学的な存在であれば、結婚も同棲も同じです。しかし人間は霊的な存在でもあります。「健やかな時も病める時も愛し続け、決して裏切りません」と紙一枚であれ誓うのは、人間が人間であるからです。離婚の自由がないところでは、本当の結婚の意味も失われていくのです。
・結婚と離婚に関するイエスの教えを、その言葉が話された文脈の中で読まない時、間違いが起こることを学びましたが、同じような間違い犯したもう一つの例が、姦淫に関するマタイ5:28の言葉です。イエスは言われました「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。ところが以前の口語訳では「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」とありました。新改訳も口語訳とほぼ同じです。口語訳、新改訳では「情欲をいだいて女を見る」、つまり性的な欲望そのものが姦淫を招くとされ、この言葉に多くの人がつまずいてきました。年頃になって女性に対して性的な思いをいだかない男性はいないからです。その結果、性は汚いもの、避けるべきものと考えられ、カトリックでは司祭は独身でなければならないとされてきました。しかし新共同訳「みだらな思いで他人の妻を見る」となりますと、意味がまるで異なります。ここで禁止されているのは「不倫」であり、イエスは性的な欲望を否定されていません。もし否定されるのであれば「神は人を男と女とにお造りになった」という創世記の言葉を引用されないでしょう。
・女と訳されているギリシャ語「グネー」が、同時に妻という意味も併せ持つために生じた訳の違いで、どちらに訳するかによって意味がまるで異なって来ます。文脈の中で聖書を読むことの重要性がここにも示されています。イエスが言われているのは「姦淫するな」と言う旧約の戒めに関することであり、旧約の姦淫罪は結婚(婚約を含む)している女性にのみ適用されました。男性が、未婚の女性と「性的交わり」を持った場合、道義的な責任は問われますが罪にはなりませんし、また異教徒の女性には姦淫規定は適用されなかったようです。ですから姦淫に関して、「女」というのは、「他人の妻」のことです。「イエスは倫理を説かれたのではなく、福音を説かれた」、イエスの言葉を律法化、倫理化した時、そこに誤りが生まれます。結婚と離婚の問題も、倫理ではなく福音として考えるべき問題なのです。

3.結婚は信仰の決断である

・聖書は離婚を禁止しません。しかしそのことは離婚を奨励しているのではなく、人間が人間らしく生きるためには、場合によっては離婚も選択できるということです。甲南女子大学・私市(さきいち)元宏先生によれば、離婚の自由を最初に唱えたプロテスタント信仰者は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンとのことです。ミルトンは「失楽園」を書いた人ですが、ピュ-リタンの信仰を持ち、信教の自由、言論の自由と共に離婚の自由を唱えました。彼はイエスの言われた言葉を真剣に考えました。イエスは、結婚とは「夫婦が神によって霊的にも身体的にも一心同体となる結びつき」だと言われました。ミルトンも夫と妻との内面的、霊的な結びつきを追求することこそが、神から与えられた結婚の目的であると考えました。その結果、そのような結婚愛が全く失われている場合には、それは神からの結婚とは言えないがゆえに離婚が認められるべきであるという結論に至ったのです。ミルトンは、結婚・離婚問題を軽く考えていたのではなく、逆に、結婚を普通以上に重視し、真剣に考えた結果、離婚は許されるべきだとしたのです。ミルトンのこのような結婚・離婚観は、夫と妻との関係において、もう一つの重要な側面を明らかにしました。それは、結婚愛は夫と妻との内面的、霊的な結びつきであるという解釈によって、夫と妻とが神の前に完全に対等で平等なものとなったことです。結婚の基本は夫婦の愛情にあり、それこそが「人を男と女に造られた」神の御心に沿うものだというのが、福音的な結婚理解なのです。
・今日の招詞に詩篇130:3-4を選びました。次のような言葉です「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」。その大事な結婚愛が崩れる時があります。夫婦のどちらかがより厳しい基準で相手を裁く時です。詩人は歌います「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」、人は弱く、罪を犯しやすい存在です。特に男性は生理的に性的な罪を犯しやすい。結婚生活において、愛し合い、信じ合うと言う基本が崩される時があります。その時にどちらかが「厳しい基準で相手を裁」けば、結婚生活はうまくいかないでしょう。それは結婚生活の永続には和解の赦しが、十字架の愛が不可欠だということを示します。相手の罪を赦して夫婦であり続ける、それは「イエスの十字架の血によって私は赦されたから、私も相手を赦していく」と言う願いを持つ信仰者にこそ可能なことであり、それこそクリスチャンにふさわしい結婚生活ではないかと思います。結婚の誓いにあるように「健やかな時も病む時も、これを愛する」、この「病む」とは単に相手が病気になった時だけではなく、罪を犯して苦しむ状況も含まれています。パウロは言います「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)。この言葉こそ、私たちに与えられた結婚生活の知恵の言葉です。

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