1.エッファタ
・今日与えられました聖書箇所は、マルコ7章「耳が聞こえず、舌の回らない人の癒し」です。マルコを含むマタイ、ルカの三福音書(共観福音書)には、115にのぼる病気治癒の物語が記録されているそうですが、現代人がこれをどう理解するかは難しいところです。ある人は、「病気癒しの奇跡などあるはずがない」と一笑に付します。別の人は、「イエスは神の子であるから奇跡を起こされるのは当然だ」と理解します。他の人は「実際に癒しがあったかどうかはわからないが、対象となった本人と周囲の人々にとっては、癒されたとしか表現できない体験をしたのだ」と考えます。私たちがどの立場を取るかは別にして、印象的な癒しの出来事が福音書の中にあります。それは当時の話し言葉であるアラム語で伝えられた奇跡物語です。
・マルコ福音書にはアラム語をそのまま残したいくつかの記事があります。今日の聖書箇所では「エッファタ=開け」という言葉が用いられ、マルコ5章の少女の癒しでは「タリタ・クム=少女よ起きなさい」という言葉が用いられています。イエスは呼吸の停止した少女に向かって、「タリタ・クム」と言われて癒されます。その場所には、三人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが居合わせました。「タリタ・クム」というイエスから発せられた言葉の肉声が弟子たちの心に強く刻まれ、いつまでも忘れることができなかった。そしてその一人であったペテロが出来事をアラム語と共にマルコに伝え、マルコも感銘を受けて、アラム語の発音をそのまま表記して、自分の福音書に書き込んでいったと思われます。今日の聖書箇所「エッファタ=開け」という言葉も同様でしょう。イエスの肉声がここに記録されており、出来事の真実性が伝わってきます。
・7章では、イエスがデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に来られた時、「耳が聞こえず舌の回らない人」が連れてこられ、イエスがその人を癒されたことが報告されています。まず、奇跡が起こされた場所がデカポリスという異邦の地であったことに注目すべきです。イエスはガリラヤで宣教の業を始められましたが、ユダヤ教指導者はイエスを「自分たちの批判者、体制に反抗する者」として憎み、イエスを殺す計画を立て(3:6)、ガリラヤ領主ヘロデもイエスを「秩序を乱す者」として、捕らえようとします(6:14)。イエスはご自分の民であるユダヤの人々から受け入れられず、異邦の地に一時的に避難され、旅の途上でこの人に会われたのです。この人は「耳が聞こえず、舌が回らなかった」とありますが、実はイエスの同胞ユダヤ人たち自身も、「目があっても見えない。耳があっても聞こえない」(マルコ8:18)状態にあったのです。彼らは神が語りかけられたのに聞こうとしないゆえに「耳が聞こえず」、耳が聞こえないため「舌が回らない」、その口から神への賛美が出ない状況にあったのです。同胞のユダヤ人たちの耳が開かれることを切に願われる思いが、この「開け」という言葉に込められているのでしょう。
・イエスはこの人と出会うと、「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とマルコは記します(7:33)。この人と一対一で向き合われたのです。そして病んでいる患部、耳と舌に触れられました。しかしそれだけでは十分ではありません。だからイエスは「天を仰いで、深く息をつかれた」(7:34)。「天を仰ぐ」、神の力を与えてくれるよう請い願う動作です。「深く息をつき」、ギリシア語「ステナゾー」で、本来の意味は「うめく、もだえる」です。イエスは人間自身の力では変えることの出来ない嘆きや苦しみを負うこの人を前にもだえ、うめき、そのうめきの中から、「エッファタ」という言葉をはかれています。すると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とマルコは記します(7:35)。イエスの祈りに応えて、イエスを通して神の力が働き、癒しの出来事が起こりました。
2.物語が伝えるもの
・マルコは、イエスが「共にうめかれた」と記します。イエスは何故、この人と共にうめかれたのか、それはこの人と「出会った」からです。その出会いを導いたのは村人でした。マルコは記します「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(7:32)。村に「耳が聞こえず、舌の回らない人」がいた。村人たちはこの人の障害に心を痛め、何とか治らないものかと願っていたが何も出来なかった。そこにイエスが来られた。イエスはこの地方でかつて悪霊につかれた人を癒したことがあります(マルコ5:20)。村人たちはその評判を聞いており、その預言者が近くに来られたことを知り、この人ならば癒してくださるかもしれないと思って、その人をイエスの前に連れてきたのです。イエスはそこに、村人の信仰を見られました。村人たちの信仰が障害の人をイエスに「出会わせ」、イエスの「うめき」をもたらしたのです。この障害を持った人は一人ではイエスの所に来る事が出来ません。何故なら彼は人の話が聞こえず、かつてイエスが悪霊につかれた人を癒したことも知らなかったのです。
・作家・柳田邦夫氏は「犠牲-わが息子・脳死の11日間」という本を書いています。彼の次男は自殺を図り、11日間脳死状態を続けた後亡くなりましたが、柳田氏はその時考えたことを本に書きました。柳田氏は死につつある息子に寄り添いながら、死には三つの形態があることに気づきます。「一人称の死」、「二人称の死」、「三人称の死」の三つです。一人称の死とは自分自身の死で、これは人間には認識できない死です。二人称の死とは、親子や配偶者、兄弟、親しい友人等の死で、この死を経験した者は、自分の一部がなくなるような深い悲しみ、喪失感を味わいます。三人称の死とは、自分と関りのない人の死で、例えばアフリカで何千人が餓死しても、隣町で自殺する方がいても、自分の生活は昨日と同じようであり、夜眠れないこともありません。
・イエスはこの障害の人と出会われた時、その人を三人称ではなく、二人称の関係ととらえられた。そのため、「共にうめく」という出来事が生じたのです。そして、それをもたらしたのは、隣人たちの信仰でした。彼らもまたこの病の人を三人称ではなく、二人称として、自分の問題として、とらえたのです。マルコはこの物語を人々の賛美で締めくくります「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(7:37)。他者のために労した人々は、やがて神の出来事の証人になっていきます。ユダヤ人たちはイエスの業を見ても讃美できませんでしたが、異邦の人々は「今、神の国が来た」ことを喜ぶことが出来た。そして神の国は、人々の信仰とイエスのうめきによって、もたらされたのです。
3.共にうめく
・今日の招詞としてローマ8:22-23を選びましたが、ここにもステナゾー=うめくという言葉が用いられています。次のような文章です「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。
・パウロは「被造物がすべて、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と言います。この世にはあまりにも悲しいこと、不条理なことが多く、その中でどうしてよいかわからない時、うめくしかないです。しかしその「うめき」から何かが生まれます。パウロは言います「このうめきは産みの苦しみであり、うめきを通して救いが与えられる」と。パウロはローマ書の中で言葉をつなぎます「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(8:26)。私たちが祈ることも出来ない時には、神の霊が私たちに代わってうめいて執り成してくださると。「うめきは力である」というのです。
・今わが国で深刻な問題の一つは年間3万人を超える自殺です。どうすれば自殺を防止できるのか、私たちはうめくしかありません。2006年に厚生労働省が行った「自殺企図の実態と予防介入に関する研究」によれば「自殺者の89%は1度目の試みで自殺」し、「自殺したいという相談を周囲にしていた人は全体の18%」に過ぎなかったそうです。つまり、自殺者は誰にも相談せずに死んでいるのです。また病歴では、自殺者の41%は精神科への通院歴があり、未遂者では「あり」が71%を占め、既遂者より精神科への通院率が高かったそうです。つまり精神科に受診している人、誰かに相談している人は、自殺未遂が多い。自殺未遂はまだどこかに希望を感じているから、未遂なのです。
・この研究が示しますのは、悩みを聞く人がいれば自殺の何割かは防げるということです。人間は肉体の病気は少しずつ治せるようになっていますが、精神の病に関してはほとんど治癒の手段がありません。その時、私たちはイエスが癒しを行われた時に、「共にうめき、天に祈られた」ことを思い起こすべきです。「共にうめき」、「共に天に祈る」、それは私たちにも出来ることなのです。近隣の人たちは、「耳が聞こえず舌の回らない人」の課題を三人称、自分には関係のない問題とはとらえずに、二人称、自分の家族の問題と同じようにとらえ、その人をイエスの元に連れてきて、その信仰がイエスに「共にうめく」ことを可能にさせ、この人の癒しを導きました。私たちの教会では、水曜日と木曜日の午前中に祈祷会を開いていますが、聖書の学びの後で、教会に集う人たちのいろいろな課題を出し合い、共にうめき、共に祈っています。ここに教会の役割があるように思います。
・同時に癒しは救いとは異なることをも、今日の箇所から学ぶ必要があります。この人は「耳が開き、舌が回るように」なりましたが、体の癒しは一時のもので、時が来れば死にます。この人がイエスと出会って与えられた最大の恵みは、体の癒しではなく、神との出会いだったのです。イエスと一対一に向き合ったこの人は、イエスのうめきと祈りを通して、神の力をいただいた、そこに出来事の真の意味があります。ですから救いは必ずしも体の癒しを必要としません。体が癒されないままでも、神と出会うことが出来れば、それもまた救いなのです。
・詩人の水野源三さんは脳席麻痺で生涯寝たきりでした。彼が信仰を与えられた後も寝たきりでした。しかし彼は歌います「悲しみよ悲しみよ、本当にありがとう、お前が来なかったら、強くなかったら、私は今どうなったか。悲しみよ悲しみよ、お前が私を、この世にはない大きな喜びが、かわらない平安がある。主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」。彼は神に出会った。そして水野さんをイエスの前に連れて行くために、多くの人が働きました。母親は源三さんのまばたきを見て、「あいうえお表」を用いて文字にしました。友人は源三さんに聖書を持ってきました。牧師は源三さんと聖書を共に読みました。多くの人が「共にうめく」ことを通して、源三さんに永遠の命である方との出会いをもたらしたのです。
・「三人称の出来事を二人称化する」、それこそイエスが私たちに求められていることです。それは自分一人ではなく、隣人と共に生きる生き方になります。ある時にはそれは重荷を担う生き方になるかもしれない。しかし素晴らしい生き方です。何故ならそのことを通して神の栄光を見る、神と出会うのですから。障害を持つ人々の隣人は讃美して言いました「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。この物語で恵みをいただいたのは、癒された本人でしょうが、それ以上にこの隣人たちかもしれないと思います。私たちも隣人になるよう招かれています。そして隣人になるとは「三人称の出来事を二人称化して、その人をイエスの前に連れてくる」ことなのです。