江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年3月1日説教(マルコ1:12-15、誘惑に打ち勝つ)

投稿日:2009年3月1日 更新日:

1.イエスの受けられた誘惑

・今週から、私たちは受難節に入りました。受難節は、「灰の水曜日」(今年は2月25日)から「復活日」(今年は4月12日)までの40日間(日曜日を除く)で、キリストの受難を思い起こす時です。40日ですから、四旬節とも呼ばれています。期間が40日と定められたのは、イエスが荒れ野で40日間断食され、試みを受けられたことを記念するためです。毎年、この時期はイエスの荒れ野での試みについて学んでいますが、今年はマルコ福音書を通して、イエスが受けられた試みが私たちにどのような意味があるのかを、聞いてみたいと思います。
・イエスは宣教の始めに、ヨルダン川でバプテスマを受けられました。その時、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とマルコは記します(1:10)。「霊が鳩のように降って来た」、バプテスマを受けられた時、神の霊が鳩のように御自分の中に降って来たとイエスはお感じになったのでしょう。そして声が聞こえたとあります「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。この時、イエスは「自分が神の子として世に遣わされた」ことを自覚されたと思われます。イエスの召命です。召命を受けた者は何をすべきかを求めます。マルコはその行為を「霊はイエスを荒れ野に送り出した」と表現します(1:12)。その荒れ野でイエスがどのような試みを受けられたのか、マルコはただ「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と書くだけです(1:13)。
・マルコは特別な言葉を用いて、この短い文章の中に多くのメッセージを込めます。まず「荒野」と言う言葉です。出エジプトの民は荒野に導かれ、エリヤも荒野で訓練の時を持ちます。バプテスマのヨハネも荒野に現れました。荒野は神の言葉を聞く場所なのです。また「40」という数字は、聖書の中で、苦難と試練を象徴する数字です。ノアの洪水は40日間続き、イスラエルの民は40年間荒野をさまよい、モーセは40日間の断食の後に十戒をいただきました。「霊はイエスを荒れ野に送り出し、イエスはそこに40日間とどまられた」、父なる神はイエスに「静まって言葉を聞く時を持て」と命じられたのです。
・マルコは誘惑の詳細を記しませんが、マタイやルカはその内容を詳しく記しています。マタイに依れば、イエスは荒れ野で三つの誘惑を受けられました。最初は「石をパンに変えよ」というものでした。次の試みは、「高い所から飛び降りてみよ」との誘いでした。三番目の誘いは「世の王になれ」というものでした。イエスはそのいずれをも拒否されたとマタイは書きます。
・ここにあります誘惑は、イエスに「力と栄光の道を歩め」と誘うものです。「神の子なら飢えに苦しむ人々に食べさせよ」、「神の子なら病に苦しむ人々を癒せ」、「神の子なら植民地支配に苦しむ人々を解放せよ」。そうすれば一時的に民は喜ぶでしょう。しかしそれだけです。パンを食べてもやがて空腹になり、次々に新しいパンが必要になります。病が癒されてもその人は死にます。死の問題を解決できない限り、病の癒しもまた一時的なものです。領土から支配者を追い出しても、別の支配者が来るだけです。人間の根本問題は罪であり、それは対処療法では解決出来ない、人そのものの根本的回復が必要だとしてイエスはサタンの誘惑を拒絶されたのです。もしイエスがサタンの誘惑に負けたならば、イエスは偉大な人物になることはできても、救い主にはならなかったでしょう。
・イエスはその生涯で、多くの試みを受けられました。イエスの家族は、巡回伝道をされるイエスに「家に戻って家業を継ぐ」ように説得しました。ペテロは十字架で死ぬと予告されたイエスに「そんなことがあってはいけません」と諌めました。パリサイ派の人々は「神の子であればしるしを見せよ」と求めました。民衆はイエスがイスラエルを政治的独立に導いてくれると期待しました。これから起こるであろう様々な誘惑に備えるために、まず荒野へ行き、荒野で訓練を受けよというのが神のご意思だったと思われます。そして父なる神はイエスに、「力と栄光のメシア」ではなく、「苦難のメシア」の道を歩むように命じられました。そして御子はその使命を受諾され、十字架の杯を飲まれます。

2.私たちの受ける誘惑

・イエスの体験された荒野の試練は、私たちにどのような人生を選び取るのかを問いかけます。多くの人は「力と栄光の道」を選び取るでしょう。人から賞賛され、自分でも納得できる自己実現の道です。だから人々は良い学校を出て、良い会社に入り、良い収入を目指してがんばります。それは決して悪い選択ではありませんが、しかし極めてもろい選択です。人からの賞賛を求める故に、賞賛がない=人が認めてくれない時は不幸になります。人から愛されることを求めますから、人が愛してくれなければ生きる意味を見失います。「力と栄光の道」は他者に依存する道なのです。
・他者の支配から脱却できない典型が、「アダルト・チルドレン」です。アダルト・チルドレンとは「大人になっても親の影響力を受け続けている子どもたち」という意味です。精神科医ブラックが、アルコール依存症患者の子供たちを調査したところ、成人後に感情や行動の障害を起こしやすいことを発見しました。また同様の障害が、他の機能不全家庭の子供たちにも起こることがわかってきました。親が子供を虐待したり、家庭内が不和であったり、子供への無関心や過度の期待があったりした時に、その子供たちが大人になってから、さまざまな精神的・身体的障害を起こしやすいというのです。それらの家庭では、子供の情緒的欲求は満たされず、子供たちは慢性的な「見捨て」を体験し、それらが心の外傷となり、健全な心の発育が妨げられ、空虚感がつのり、やり切れない空しさを埋めようとして、仮面をかぶって生きるか、物質や人、嗜癖的行動に依存するようになります。アダルト・チルドレンはアルコール・薬物依存、摂食障害、人格障害になることが多いと報告されています。
・「力と栄光の道」のもろさは、その人の人生が他者に支配されていると言うことです。親が愛してくれなければ自分も子を愛せない。人が認めてくれなければ生きていけない。まさに他者依存の生き方です。イエスはこのような他者依存の生き方ではない、人間らしい生き方があるのではないかと言われます。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ 10:42-45)。「人から愛される」と言う受身の生き方ではなく、「仕える=人を愛していく」能動的な人生を生きよとイエスは言われます。この人生においては、例え相手が愛し返してくれなくても、人生は揺らぎません。愛してくれなくとも愛していくことが出来るからです。しかしこの生き方は人間には出来ません。何故なら人間の本質は自我であり、「仕える」ことより「仕えられる」ことを求めるからです。その人間の本性が変えられるのがイエスとの出会いです。だからイエスは言われます「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。神はあなたが旧い生き方を捨て、新しく生まれ変わることを待ち望んでおられる。今こそその時、神の国が来たのだとイエスは言われます。

3.誘惑に勝つ

・今日の招詞にマルコ10:26-27を選びました。次のような言葉です「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」。
・この言葉は永遠の命を求めてきた「金持ちの男」に関して、イエスが言われた言葉です。この男は神の戒めをことごとく守ってきましたが平安がありません。そこでイエスのところに来て、どうすれば永遠の命が得られるかを尋ねます。イエスは彼に「持っているものを捨てて従いなさい」と言われましたが、男は金持ちでしたので捨てることが出来ず、イエスから去ります。それに対してイエスは言われます「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(10:24-25)。弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚いています。イエスが言われたのは「財産を持つことが悪いのではなく、財産に心を奪われることが悪いのだ。もし財産の所有が神の国に入ることを妨げているのであればそれを捨てよ」と言うことです。しかし、この男は「捨てることは出来ない」として去っていきました。仮にこの人が、「神には出来る」という信仰があれば、財産を持ちながらでもイエスの弟子になれたでしょう。
・捨てることが出来るように、神は私たちに試練をお与えになります。悲しみや病気が私たちに与えられるのもそのためです。晴佐久昌英というカトリックの司祭がいます。彼は自分が病気になって入院した時の体験を言葉にしています。「病気になったら」という文章です。一部を引用します「病気になったら 安心して祈ろう、天にむかって思いのすべてをぶちまけ、どうか助けてくださいと必死にすがり、深夜ことばを失ってひざまずこう。この私を愛して生み、慈しんで育て、わが子として抱きあげるほほえみに、すべてをゆだねて手を合わせよう。またとないチャンスをもらったのだ、まことの親に出会えるチャンスを。そしていつか 病気が治っても治らなくても、みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり、甘えとわがままを受け入れて自由になり、感動と感謝によって大きくなり、友達に囲まれて豊かになり、信じ続けて強くなり、自分は神の子だと知るだろう。病気になったら、またとないチャンス到来、病のときは恵みのとき」(晴佐久昌英著「だいじょうぶだよ」女子パウロ会)。
・健康の時は「食べられることがどれほどありがたいことか、歩けることがどんなにすばらしいことか、新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか」に気づきません。健康の時は「同じ病を背負った仲間、日夜看病してくれる人、すぐに駆けつけてくれる友人たち」の存在が見えません。健康な時には「天にむかって思いのすべてをぶちまけ、どうか助けてくださいと必死にすがり、深夜ことばを失ってひざまずく」ことをしません。まさに「病のときは恵みのとき」なのです。ヘブル書は晴佐久さんの言葉を神学的に言い換えます「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブル12:5)。
・自殺統計を見れば、どの年代においても「健康問題」がトップに来ます。現代人は病気や苦しみに弱い、何故でしょうか。悲しみや苦しみを否定的に、あってはならないものととらえる故に、それに負けてしまうのです。パウロは言います「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(�コリント7:10)。二つの悲しみがあるのではありません。悲しみは一つです。その悲しみを神からの試練と受け止める時にその悲しみは人を救い、悲しみをあってはならないものと受け止める時にそれは私たちを殺してしまうのです。私たちは悲しみや病気という試みを通して、旧い自我が壊され、愛される人生ではなく、愛する人生を歩むことが出来るように変えられて行くのです。「人には出来ないが神には出来る」、それを知るために、イエスが荒野に導かれたように、私たちもまた荒野に導かれていくのです。荒野、悲しみや苦しみこそ、神に出会う場なのです。

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