1.創立記念日を迎えて
・今日、私たちは、教会の創立記念日礼拝を迎えています。私たちの教会は新小岩バプテスト教会の伝道所として立てられ、第一回目の礼拝が1969年11月6日に持たれました。その後、土地が購入され、会堂が立てられ、1973年11月3日に教会組織がなされました。今年は伝道開始39年、教会組織35年になります。伝道開始も教会組織も同じ11月でしたので、私たちは11月第一主日を、創立記念礼拝日として祝います。この11月第一主日は教会歴によりますと、永眠者記念日(諸聖人の日)です。39年前に教会を形成するために集められた人々の多くは、今は亡くなられました。39年は一つの世代が交代する年月です。私たちは、今は故人となられた信仰の先輩たちの祈りと願いを継いで、教会を形成します。そこで今日は、「信仰者の死」について、テサロニケ人への手紙から、御言葉を聞いていきたいと思います。
・パウロはテサロニケの人々に福音を伝えましたが、その福音とは「イエスの十字架の購い、イエスの復活、イエスの再臨」であったことが手紙の冒頭から読み取れます。パウロは言います「あなたがたは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。また御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(1:9-10)。「御子が天から来られる」、キリストの再臨です。現代の教会は、「十字架と復活」を中心に宣教しますが、初代教会においては、再臨、キリストが再び来られることを通して救いが完成することが信仰の中核的な意味を持っていました。主の祈りで、私たちは「み国を来たらせたまえ」と祈りますが、この祈りこそ再臨、神の国の完成を待望する祈りです。
・再臨はギリシャ語では「パルーシア(到来)」ですが、それがラテン語でアドベントゥスとなり、英語のアドベント(待降節)を意味するようになりました。アドベント=クリスマスとは、「イエスが来られた」事をお祝いすると同時に、「イエスが再び来られる」ことを待望する、すなわち再臨待望の時でもあったのです。今日の教会ではこの再臨信仰が語られることは少なくなりましたが、初代教会の人々は、自分たちが生きている間にキリストが再び来られることを、当然のこととして信じていたのです。
・テサロニケの人々は同胞からの迫害という苦難の中にありましたが、主が再臨され、神の国が完成すれば、自分たちに栄光が与えられるという希望に生かされていました。ところが教会員の一人がその再臨を見ずに死んでしまった。人々は動揺しました。再臨を待たずに死んだ者は、主の栄光=救いにあずかれないのではないか、自分も今死ねば救われないのではないかと、人々の間に不安が拡がっていきました。だからパウロは書きます「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(4:13)。
・信仰を持たない人々にとって、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事です。当時の手紙には次のように書いてあります「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。信仰を持たない人にとって、死は救いのない絶望です。これは現代においても同じです。多くの人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活する、それなのに何故嘆き悲しむのかと。
・パウロは死者の復活の出来事を次のように描き出します「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(4:16-17)。「ラッパの音を合図にしてキリストが天から降ってくる」、「私たちは空中で主に会う」、現代の私たちには受け入れがたい表現ですが、当時の人々は神秘をこのように表明したのです。パウロがここで言っているのは、「人が死ぬとは眠ることであり、最後の日に彼らは起こされる」ということです。
2.キリストの復活を信じることは、自分たちの復活をも信じること
・パウロの手紙を通して明らかになるのは、テサロニケの人々は主の再臨の前に死ぬことを恐れた、つまり彼らは主の救いを信じていても、その信仰の中に「死」を位置づけていなかったという事実です。「信仰によって生きる」ことを彼らは目指しましたが、死ぬこともまた信仰の中に含まれる事に気づきませんでした。だから死という現実が目の前に迫ってくると、動揺し、嘆き悲しみました。現代の私たちは彼ら以上に、死を認識しない生活をしています。かつては人生50年であり、若くして死ぬ人も多く60歳まで生きる人はまれでした。死がいつも隣にありました。しかし、人生80年になり、60歳になっても70歳になっても死なず、いつまでも生きるかのような幻想を私たちは持つようになりました。信仰においても死ぬことではなく、生きることが中心になってきました。
・「信仰によって生きる」、主を信じ、その救いに預かるならば、恵みの中に生きることが出来る。苦しみや悲しみに打ち勝つ力をいただき、喜びと感謝の人生を歩むことが出来ると私たちは考えています。しかし、主を信じ、その救いにあずかる事の中に「死がない」。だから近親者の死や自分の病気等により死が目前に迫ってくると、信仰者でさえ慌てふためく時代になりました。パウロが言うように「眠りについた人(死んだ人)たちについて、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しむ」ようになったのです。
・この世の人々は、「人間とは自らが造り上げる存在であり、自分自身の運命の支配者であり、自分自身の魂の主人である」と考えます。彼らは死を意識せず、関心は現在に集中され、現在の幸福をあくまでも追求します。そのためにこの世は、自己の利益のみを求める弱肉強食の争いあう世界になってしまい、弱い者、負けた者が苦しむ世界になりました。「勝ち組」、「負け組」、この世の有様を如実に示す言葉です。しかし、たとえ「勝ち組」になっても、死は歴然と存在し、彼らの人生は最終的には敗北します。
・信仰者は「この世界で進行している出来事は神の出来事であり、私たちの救いの物語であり、その物語はキリストの十字架と復活と再臨によって確かにされている」と考えます。信仰者は死もまた神によって与えられる恵みであると信じ、人生を走り終えた後、休息としての死が与えられ、最後の日には復活して永遠の命をいただく希望に生かされます。「死は眠りに過ぎない」、信仰者にとっても近親者の死は悲しい出来事であり、自分の死は怖い出来事です。しかし、その悲しみや恐怖を包む希望が与えられます。何故ならば、「キリストによって死は眠りに変えられた」という福音の言葉を聞くからです。
3.復活の信仰に立つ
・今日の招詞として、�テサロニケ5:10−11を選びました。今日の聖書箇所に続く箇所です。「主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。
・パウロは死を眠りと表現します。「目覚めていても眠っていても」、生きていても既に死んだとしても、との意味です。眠るということは「目覚めて起きる時が来る」ことを意味しています。それが復活です。私たちの人生が死によって切断されるのではなく、死を通して続くことを信じることです。それは根拠のない信仰ではありません。イエスが十字架から復活されたことが確実であれば、私たちが死から復活することもまた確実なのです。
・コリント教会への手紙の中で、パウロは、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」と言います(�コリント15:20)。キリストは復活してペトロに現れ、使徒たちに現れ、パウロ自身にも現れた。それは否定できない事実です。キリストの復活は、キリストだけに起こった特別の出来事ではなく、死者が復活することを代表する出来事であり、それをパウロは「初穂」と表現します。キリストが「初穂」であり、私たちがそれに続くと。
・現代は科学の時代です。私たちは科学的真理を信じます。しかしその結果、私たちは科学が承認することしか受け入れることができなくなり、復活を信じることが難しくなりました。復活を信じることの出来ない現代人は、ますます死の束縛の中に捕われ、死はタブーとなって社会から隠されました。しかし死は厳然としてあります。科学ですべてのことが語り尽くされるのではない事を認識する必要があります。この科学の時代において、私たちは改めて復活の信仰を正しく理解し、時代に対応する形で語らなければならないのです。
・私たちは復活を信じます。復活を信じる者は、この世の生に執着する必要がなくなります。この世で成功し、人から賞賛されることが人生の目標ではなくなります。復活を信じる者は、障害を持って生まれ幼くして命を召された子どもたちの人生も、志半ばで病に倒れて亡くなられた方々の人生も無意味ではなかったと信じることが出来ます。このような信仰を与えられた者は、病気で苦しんでいる人々や、親しい人を亡くして喪失感に悩んでいる人々を助けることが出来ます。何故ならば私たち自身の問題は既に解決されているからです。私たちはどう生きるべきかが既に解決済みであるゆえに、他者をどう慰め、どう励ますかが私たちの人生の主題になります。
・アウグスティヌスはその著「神の国」で二つの愛を述べています「二つの愛が二つの国を造ったのである。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地の国を造り、他方、自己を軽蔑するにいたる神への愛が天の国を造ったのである」と。復活の信仰に立つということは、神の国の住人とされた者して生きることです。それは自己愛から解放された生き方、自分のためではなく、他者のために生きる生き方です。そして教会は地の国の真ん中に立てられた神の国です。39年前にここに教会が立てられた、それは神が立ててくださった、そして今私たちはこの教会を拠り所にして、いまだ地の国にあって苦しむ人々に福音を伝える責務を負っているのです。復活の信仰に堅く立って、この教会を形成することこそ、創立記念日に当たって、私たちが決意すべきことなのです。