1.新しく生まれることを理解できないニコデモ
・今日、私たちは一人の姉妹のバプテスマ式と一人の兄弟の転入会式を執り行いました。お二人の信仰告白を事前に拝見させていただきました。姉妹は十数年間も病気で苦しみ、その中で高校時代から読み続けていた聖書を離さず、イエスと出会い、「もう苦しまなくとも良い」との言葉をいただいて、バプテスマを受ける決心をされました。兄弟は8歳の時にバプテスマを受けられましたが、20年経った今、「まだ求道中である」と自ら告白されています。イエスは言われました「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)。水と霊とによって生まれるとはどういう意味なのか。今日はお二人の信仰の歩みをヨハネ3章と照らし合わせながら、バプテスマの意味を共に学んでみたいと思います。
・ヨハネ3章はニコデモがイエスを訪ねてくる場面です。ニコデモは律法の教師であり、また最高法院の議員でした。今日で言えば大学教授でかつ国会議員でもあるという身分です。律法の教師ですので、聖書に精通し、律法(戒め)を厳格に守ってきたのでしょう。また教師として、人々の尊敬も集めてきたと思われます。最高法院議員であるということは、家柄が良く、裕福でもあったと推測されます。つまり、彼は熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活も何不自由はなかった。それでも満たされなかったのです。「このままで良いのか」、「自分は何のために生きているのか」。多くの解決できない疑問がニコデモの中にありました。
・他方、イエスはエルサレムで多くの不思議な業と説教を為されました。目の見えない人の目が開けられ、歩けない人の足がいやされました。イエスの説教は不思議な力で人々に迫ってきました。人々はその業と言葉に驚き、この方は預言されていたメシア(救い主)かもしれないと思い始めていました。ニコデモはイエスのもとを訪れました。この人なら、自分の疑問に対する答えを持っているかも知れないと思ったのでしょう。
・しかし、彼がイエスを訪れたのは、昼間ではなく、夜でした。律法の教師であり、議員でもある者が、何の資格も権威もないイエスを公然と訪れるわけにはいかなかった。だから、人目を忍んで、夜にイエスを訪ねた。イエスはそのようなニコデモを見て、彼の問題がわかりました。彼は神の目ではなく、人の目を気にしていたのです。だからすぐさま言われます「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:3)。
・それに対してニコデモは反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。ニコデモは高齢でした。今さら人生をやり直すことは出来ないと反論しました。「新たに」と訳された言葉=ギリシャ語アノーセンには、「上から」の意味もあります。イエスは「上から」、神によって生まれなければという意味で言われましたが、ニコデモはイエスの言葉を誤解します。ニコデモの見当違いを正すために、イエスは「上から生まれる」ということの意味を説明されます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。肉から生まれる、霊から生まれる、イエスが何を言っておられるのか、ニコデモには理解できません。
2. イエスの言葉を長い旅の果てに理解したニコデモ
・イエスは続けて言われます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:8)。ギリシャ語=プニューマは、風と霊という二つの意味を持っています。風(プニューマ)が見えないように、霊(プニューマ)も見えない。しかし、風の働きは音で聞くことによって、あるいは肌で感じることによって知ることが出来る。同じように、神の霊も、信じることによって人の心の中に変化と確信が起こるのだとイエスは言われました。今日、バプテスマを受けた姉妹は病気の苦しみの中で、この霊と出会われました。
・さらにイエスはニコデモに語られます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」(3:14)。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」、イスラエルの民がエジプトから助け出され、荒野を旅した時に起こった出来事です。民は荒野の苦労に耐えかねてつぶやき、神は恩知らずな民に炎の蛇を送られ、蛇にかまれて多くの者が死にます。モーセが執り成しを願ったところ、神は「炎の蛇を造り旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(民数記21:8)と言われます。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げ、この蛇を見上げた者は助かったという物語です。
・この「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ように、「人の子も上げられなければならない」と、イエスは語られます。「人の子」であるイエスが、十字架につけられて地上高く「掲げられ」、その苦しみを経て天に「昇る」。人はその十字架を見つめることによって、神からの霊を受けて、新しく生まれることが出来るとイエスは言われました。その言葉が3:15にあります「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。ニコデモには何のことか理解できませんでした。
・ニコデモはヨハネ福音書のなかに3回登場します。2回目は最高法院でのニコデモで、ヨハネ7章にあります。多くの人がイエスを信じ始めたため、ユダヤ当局としても放置できなくなり、イエスを捕らえて殺そうと計画します。この時、ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(7:51)とイエスを弁護します。しかし、「あなたはイエスの仲間なのか」と問われて黙り込みます。最初のニコデモよりも変えられています。しかし、「あなたも仲間か」と言われれば黙り込みます。まだ、ニコデモは新しく生まれていません。
・しかし、3回目のニコデモ、ヨハネ19章の彼は違います。ヨハネは書きます「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。・・・ニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(19:38-40)。
・ここでのニコデモは、最高法院によって死刑を宣告され、執行されたイエスの遺体を公然と埋葬しています。彼にはもう、財産や地位に対する執着はありません。イエスの十字架に立ち会ってニコデモは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」とイエスが言われた意味がわかった。他者のために死ぬことの出来る死」を目撃し、「この人は神の子であった」ことを知ります。ニコデモはその後、弟子たちの群に加わり、ペンテコステの日にペテロやヨハネと共に聖霊を受けたと思われます。長い道のりを歩いて、彼はやっとイエスの言われた「水と霊で生まれる」ことの意味を理解しました。聖霊を受けた彼には何の不安もありません。何故ならば、「キリストが私の内に生きておられる」ことを、身をもって体験したからです。このニコデモの歩みを見る時、救いとは生涯をかけて与えられるものではないかと思えます。私たちはその途上にあります。ですから、兄弟が「求道中である」と告白されたことは正直な言葉であり、それで良いのです。
3.新しく、上から生まれる
・今日の招詞として、ローマ6:3−4を選びました。次のような言葉です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。
・黒澤明作『生きる』(1952年)をごらんになった方は多いと思われます。市役所に勤める老年の主人公が、胃ガンで余命が少ないことを知り、このままでは死ねない、何か意味あることをしたいと思い、市民から要望が出されていた公園建設にまい進し、死んでいくという物語です。この映画について黒澤監督は語っています「映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつく。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかった」。映画の原作になったのはトルストイの小説「イワン・イリッチの死」です。官吏でありこの世の喜びにのみ生きがいを感じてきた主人公が、不治の病に罹り、これまでの生涯が無意味なものだったのではないかという想念に囚われます。裁判官として人々の尊敬を集めてきた、家族や友人に囲まれ、生きることを楽しんできた。しかし死の床においては、それらは何の役にも立たないことを知り、愕然とする、そのような小説です。
・そうです。死の床においては、お金も家族も友人も何の役にも立たない。絶対的な死の前では人間は無力なのです。そして死は全ての人に訪れる。小説家の椎名麟三は「私の聖書物語」の中で次のように語ります「人間は死を超えて生きることは出来ず、この世界を超えては生きられないということは厳粛な事実だ。私はこの事実の前に凝固していた」。その彼が復活のイエスに出会って、死を超える人生の意味を知ります。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」(ヨハネ3:3)。私たちはこの言葉を真剣に受け止める必要があります。私たちが癌に犯され、治療のために高額な医療費が必要な時、私たちはそれがいくらであっても払うでしょう。命がかかっているからです。しかもその命は、やがて無くなる命です。無くなる命のために一生懸命になれるのであれば、何故永遠の命のために一生懸命にならないのかとイエスは問われます。ニコデモは迷いながらもイエスを求め続け、最後には新しく生まれることが出来ました。姉妹は長い闘病生活に苦しまれて、その中で「生かされている」自分に気づかれた。兄弟はこの20年間ニコデモと同じように求道されてきた。ニコデモの生涯は、兄弟を励ますでしょう。お二人の信仰告白を通して、「生きるとは何か」を見せていただいたことを感謝します。