1.この小さき者をつまずかせるな
・今日、10月第一主日は世界聖餐日です。世界の教会がこの日に主の晩餐式を祝います。世界聖餐日が定められたのは、1936年のアメリカでした。世界恐慌が吹き荒れ、ヨーロッパではスペイン戦争が始まり、ドイツはチェコやハンガリーに侵攻し、世界大戦が始まろうとしていました。暗い時代です。アメリカでも、町には失業者があふれ、パンを求める人々が教会の前に長い列を作りました。教会は特別献金を募ってパンを買い、人々と共にパンを裂いて、これを食しました。長老教会から始まったこの動きは教派や国を超えて広がり、世界聖餐日として定着してきました。聖餐、主の晩餐はパン裂きとも言われます。英語ではcommunion、共に交わるとの意味です。イエスがご自分の身体をパンのように裂かれて私たちにお与えになったゆえに、私たちも自分のパンを隣人に裂き与えていく、そのことを覚える日が今日であります。その私たちに今日読むように命じられたのが、ルカ17:1-10です。そこには、私たちがパンを共に裂くとはどういうことかについてのイエスの教えが記されています。
・最初にイエスは言われました「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」。この言葉は弟子たちに、後に教会の指導者となるべき者たちに言われています。つまずかせるとは「罪を犯させる」という意味で、ギリシャ語スカンダロン、スキャンダルという英語の語源になった言葉です。教会には信仰に入って間もない人も来る、その人たちは教会の指導者の言動を見て、教会とは何かを考えるでしょう。もし、牧師が「生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)と説教しながら、個人生活において金銭から解放されていなければ、人々は牧師の説教を聞けなくなるでしょう。教会の中に「私はパウロに、私はアポロに」(〓コリント1:12)という内部争いがあれば、失望して教会を去っていく人が出るでしょう。そのようなスキャンダラスな行為をしてはいけない、人々に天国の門を閉じるような行為をしてはいけないと戒められています。
・しかし、つまずきは不可避的に起こり、ある兄弟は罪を犯すかもしれません。その時は兄弟を戒め、彼が悔い改めれば赦してあげなさいとイエスは言われます。教会内では、いろいろな問題が生じます。男女関係の間違いやお金をめぐるトラブルが起こることもあるでしょう。異端に迷わされて自分こそ正しいと言い張る人もいるでしょう。イエスはそのような人たちに対しても無制限に赦せといわれます。しかし、それは「悔い改めたならば」です。罪は悔い改めを通して赦されていくのです。悔い改めこそ、教会から罪を取り除く唯一の道です。そして悔い改める人には無条件の赦しが与えられます。
・その赦しの難しさを私たちは知っています。一回や二回はその人を赦せるかもしれませんが、それが三回、四回になっていくと、赦せなくなります。自分を非難し続ける人や裏切り続ける人を、初代教会の使徒たちでさえ、赦していくことはできなかった。だから使徒たちは「私たちの信仰を増して下さい。あの人を赦せないのです」と祈り求めました。5節から、弟子が使徒に、イエスが主に変わっていることを注目すべきです。ルカの教会においても赦しがなかったのです。
・イエスは弟子たちに答えられます「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(17:6)。弟子たちは人を赦せるようになるためには「もっとたくさんの信仰が必要だ」と考えていました。しかし、イエスは、今あなた方の持っている信仰がからし種一粒ほどの小さいものであっても、不可能と思えることも可能になっていくのだと言われます。W.バークレーはこの箇所を次のように説明しています「何かをやるに当たって“そんなことはできっこない”と言いながらやるなら、それはおそらく達成されないであろう。しかし、“ぜひともそれをしなくては”と言う気持ちでことに当たるなら、きっとそれを成就する機会も与えられる。我々は単独でことに当たっているのではない、神が共にいて力を与えてくださることを常に想起せねばならない」(W.バークレー「ルカ福音書」)。小さな信仰であっても、弟子として従い続ければ、ふさわしく生きることができるのだとイエスは励ましておられるのです。
・最後にイエスは「主人と僕のたとえ話」を語られます。「僕が一日の仕事を終えて帰って来た時、主人は彼に『疲れただろう。すぐに食事の席に着きなさい』とは言わないだろう。彼は僕であり、時間もまた主人のものだからだ。主人は僕に言うだろう『夕食の用意をしてくれ。給仕してくれ。その後で自分の食事をしなさい』。あなたが主人の言いつけに従って食事を作り、給仕しても、主人は僕に感謝しない。やるべきことをやっただけであるから。だからあなたは言いなさい『私どもは取るに足りない僕です。しなければいけないことをしただけです』」と。僕とは奴隷です。奴隷の全ては主人のもの、あなたも奴隷のように神に仕えなさいとイエスは教えておられるのでしょうか。
2.主人なのに仕えて下さった主を思う
・今日の招詞にルカ22:27-29を選びました。次のような言葉です「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなた方の中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権を委ねて下さったように、私もあなた方にそれを委ねる」。
・最後の晩餐の席上でイエスが弟子たちに言われた言葉です。17章においてイエスは弟子たちにあなた方は僕だから主人に仕えなさい。その時、何の報酬も求めてはいけない、仕えることが僕の役割ではないかと言われました。普通の主人は言うでしょう「夕食の用意をしてくれ。給仕してくれ。その後で自分の食事をしなさい」。しかし、私たちの主人は言われます「私はあなた方のために給仕する」。この主人は主人であるのに、私たち僕のために給仕して下さるのです。
・キリスト者の生活は、共働きをしながら子育てをしている婦人の生活に近いかもしれません。彼女は夕方の5時に仕事が終わると会社を出て、子どもを預けている保育所に急ぎます。子どもと共に自宅に帰った婦人は、まず子どもの手足を洗い、子どものための食事を用意し、食べさせてから、自分と夫のための食事の用意をするでしょう。忙しい生活です。しかし、彼女は不幸ではありません。夫と子どもを愛しているから、家族のために仕えることが苦にならないのです。キリストは私たちを愛し、私たちのために自分の身体を裂いて、命のパンを下さった。だから、私たちも自分の身を裂いて、生きることに苦痛を感じないのです。ある人の人生は過酷です。その人のためにパンを裂くとはその苦しみを共にすることです。1936年のアメリカの信徒たちは自分たちも食うや食わずの生活をしていましたが、他者のために喜んで献金してパンを贖いました。彼らも神の子だからです。
・キリストに仕えることは私たちの義務です。同時に私たちの特権です。キリストを通して、私たちはこの世から自由にされていくのですから。キリストに仕えることを通して、私たちは奴隷から友とされていきます。キリストは言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ」(ヨハネ15:13-15)。僕であるのに、キリストは私たちを友として下さった、だから私たちも隣人が自分の奴隷であることに耐えられなくなります。奴隷制度がクリスチャンたちの運動の結果、根絶されたことを思い起こして下さい。イギリスの奴隷制度廃止の先頭に立ったのはクウェーカー教徒であり、米国の奴隷制廃止の引き金となった「アンクル・トムの小屋」を書いたハリエット・ストーは熱心な改革派の信徒でした。主人が自分のために命を捨てて下さったことを知った者は、もう他人の主人として彼を酷使することはできないのです。信仰が動かない桑の木を、あるいは山(マタイ17:20)を動かしていくのです。アフガニスタン難民の医療活動をしているペシャワール会代表の中村哲医師も私たちバプテストの仲間です。彼は特別のことをしているわけではない。「しなければいけないことをしているだけ」なのです。
・ジョン・ダンという英国の詩人がいます。「たがために鐘は鳴る」という有名な詩を書いた人ですが、彼は英国国教会の牧師でもありました。最後に彼の祈りを見てみましょう。今日のテキストの最上の注解です。「あなたは他者を罪に誘い、私自身の罪を彼らを招く戸口としたあの罪を赦してくださいますか。あなたは私がひどく溺れ、ようやく一、二年前に遠ざけたあの罪を赦して下さいますか。あなたが赦して下さった時にも、あなたの赦しは終わりませんでした。何故なら、私にはさらに多くの罪があるからです」。あなたが私の罪を赦して下さったから、私も隣人の罪を赦します。あなたが私の足を洗って下さったから、私も隣人の足を洗っていきます。あなたが自分の身を裂いて私を救って下さったから、私も自分の財布を開いて隣人のためのパンを買い求めます。私たちはこのような生き方をするように、招かれているのです。
*アーネスト・ヘミングウェイはジョン・ダンの詩に着想を得て、スペイン戦争を題材にした小説「たがために鐘は鳴る」を書きました。