1.パウロを裁くコリントの人々
・クリスマスの後、私たちは、使徒言行録やパウロ書簡を通して、キリストの福音が、どのようにして、異邦世界に伝わって行ったかを、数回にわたって学んできました。そこで見えてきましたのは、福音を伝えた人の人格によって、福音が微妙に違う形で伝えられたということです。パウロの伝えた福音とペテロの伝えた福音は微妙に異なり、アポロの伝えた福音も前二者とは違ったものでした。また受ける側も、それぞれ伝統や考え方が違いますから、同じ言葉が別のものとして受け入れられていきます。その結果、教会内に、「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はペテロに」という分派が生じてきました。人が伝え、人が聞く以上、そこに違いが出てくるのは当然です。30人の人がいれば、30通りの福音理解が生じます。
・それにもかかわらず、パウロは「教会内で分派争いをするのは信仰が未熟なためだ」と言います。コリント人への手紙の中で、彼は言います「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が、私はパウロにつくと言い、他の人が、私はアポロになどと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(〓コリント3:3-4)。キリストに出会った以上、あなたがたはただの人、肉の人ではなくなった、それなのに何故争うのかとパウロは問いかけます。彼は、コリント4章で、何がいけないのかを具体的に指摘します。教会も人の集まりですから、そこには必ず意見の違いや対立があります。世の人々は仲間が集まって党派や分派を造りますが、違いや対立を争うではなく、多様性として喜ぶのが教会です。「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)、そのような、違いを喜ぶ教会を形成するにはどうすればよいのか、今日はコリント4章を通して、学んでいきます。
・コリント教会はパウロによって設立されましたが、パウロがコリントを離れてエペソで伝道しているうちに、人々の心はパウロから離反し、「パウロはイエスの直弟子でない、本当に使徒なのか」、「霊の賜物を受けていない」等、パウロを批判するようになりました。その人々にパウロは手紙の中で言います「人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」(〓コリント4:1)。キリストに仕える者=ヒューペレテース、ガレー船の一番下で櫓をこぐ奴隷です。伝道者は奴隷船の漕ぎ手のようにキリストに仕えるとパウロは言います。また、管理者=オイコノスは、家の管理を任されている奴隷のことです。私たちはキリストから福音の宣教を任されている奴隷だ、奴隷だから主人のために働く。だからあなた方から、どんな批判を受けても問題ではなく、問題は「キリストのために働いているか」、その一点にかかっていると彼は言います。伝道者は神に立てられ、神からその業を委託されています。もし伝道者がその委託の応えない時は、神が裁かれます。伝道者を裁く方は神であるのに、「あなたがたは先走って裁いている」(4:5)。「私はパウロに」、「私はアポロに」、とあなたがたが言っていることは、伝道者であるパウロやアポロを、あなたがたは自分が神であるかのように、裁いているのだと言っているのです。
2.その人々に対し「私に倣え」と説くパウロ
・パウロはコリントの人々への批判を続けます「あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは、だれです。あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、私たちを抜きにして、勝手に王様になっています」(4:7-8)。あなた方は仕えることではなく、仕えられることを求めている。王様であるかのように高ぶっている、それで良いのかとパウロは言います。さらに、あなた方は私たち伝道者を刑場に引かれていく死刑囚のように嘲笑していると彼は言います「神は私たち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」(4:9)。ローマの競技場では、さまざまな見世物の最後に死刑囚が引き出され、死ぬまで猛獣や他の剣士と戦わせさられます。「伝道者は、命をかけてキリストの福音を伝えている。その私たちを裁き、嘲るあなたがたは何者なのだ」とパウロは反論します。ここには闘争的なパウロの一面が強く出ています。読んでいて慰められる箇所ではありません。しかし、このような戒めもまた、必要な使信なのです。
・14節から語調が変わります。パウロは言います「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいて私があなたがたをもうけたのです」(4:14-15)。あなた方を生んだのは私なのだと。そしてパウロはここで有名な言葉を語ります「私に倣う者になりなさい」(4:15)。これはパウロの生活態度や信仰に倣いなさいという意味ではありません。そうではなく「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」(11:1)と言っているのです。「本当にキリストに属したいのであれば、私を見よ、私のように生きよ」とパウロは迫ります。キリスト者になるとは、この世的に成功したり、良い暮らしをすることではなく、愚か者とされ、弱い者とののしられ、侮辱される者となることだ。キリストはそうなさったではないかと彼は訴えます。
・コリントの人々の罪は「傲慢」です。パウロから福音の手ほどきを受け、アポロから成長を励まされて、彼らは育ってきました。そしてもう一人前になったから、自分たちの知恵でやっていける。パウロは要らない、アポロも要らない、と彼らは言い出しているのです。C.S.ルイスは「傲慢」について、次のように言います「傲慢な人間は、つねにものを、人を見下します。何かを下に見るという姿勢を取るかぎり、自分の上にあるものに気づくことはないでしょう」。人を非難する、人の悪口を言うことは、人を見下すことです。そこには神はいません。ルイスが言うように「何かを下に見るという姿勢を取るかぎり、自分の上にあるものに気づくことはない」のです。逆に、神に出会った者は、もう人を見下すことは出来ません。コリントの人々が、パウロの悪口を言ったり、非難したりしているとすれば、彼らの心はパウロだけではなく、神からも離れてしまったのです。
3.仕えられるよりも仕えることを
・今日、私たちは招詞として、マルコ10:42‐45を選びました。次のような言葉です。「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」。
・イエスと弟子たちはエルサレムに向かっていました。道中で、ヤコブとヨハネはイエスに願います「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい」(マルコ10:37)。彼らはイエスがエルサレムで王座につかれる時、自分たちにも報償を下さいと願ったのです。ヤコブとヨハネの抜け駆けに、他の弟子たちは腹を立てます。彼らもまたイエスの栄光の時に報われたいから、従って来たのです。その弟子たちに言われた言葉が、今日の招詞です。「この世では、人の上に立って権力を振るうことが偉いことだと言われている。しかし、神の国では違う。そこでは仕える者こそ偉いのだ。人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのだ」。王座につくためではなく、十字架につくために来た。だから従いたいのであれば、あなたも十字架を背負って従いなさいとイエスは言われています。
・私たちが求めるのは、価値ある人生、人にほめられ、うらやましがられる生活です。誰もが、評価される事を求めています。会社でも、学校でも、家庭でもそうです。私たちは、他者の評価の上に、自分の人生を築き上げています。しかし、そのような人生はすぐに崩れます。強い人も弱くなり、若い人も年老いて、役に立たなくなるからです。イエスは言われます「天の父は、弱い人間、役に立たない人間にも、生きることを許しておられる。私たちもいつかは弱い人間、役に立たない人間になる。その私たちをも生かして下さる神の恵みを知った時、私たちの心からわきあがる思いは感謝だ。神への感謝が人に仕える行為へと私たちを導くのだ」。仕える、“ディアコネオー”の、もともとの意味は「給仕する」ということです。給仕する人は、自分は食べることが出来ませんが、相手がおいしそうに食べるのを見て、満足します。それが仕える生活です。
・人間にはこのように仕えることは出来ません。私は妻に仕えることを求めていますが、私自身は妻に仕えていません。私は牧師として教会に仕えています。自分の利益よりも教会の利益を優先します。神学校スタッフとして、神学校に仕えています。神学校のために損得を離れた奉仕が出来ます。それなのに、何故、妻に仕えることが出来ないのでしょうか。それは、教会や神学校に仕えるのは、職業だから、見返りがあるから、仕えているのではないか。妻に仕えなくとも、妻は食事や洗濯の世話をしてくれます。だから仕えない。聖書は「仕えることは、見返りを求めないことだ」と教えます。とすれば、私は、本当の意味では、教会にも神学校にも仕えていないのではないか。見返りを求めない愛、それは十字架にしかありません。だからパウロは“肉のイエス”ではなく、“十字架のキリスト”を見よと繰り返すのです。キリストが私の為に死んで下さった、だから私も他者の為に死ぬ、十字架のキリストに出会って、変えられていくのです。先週、ダイアナ妃とマザーテレサの生涯を比較しました。「1997年夏のほぼ同じ時期に、ダイアナ妃とマザーテレサがなくなった。ダイアナ妃は人に愛され、幸せになりたいと願い、それを追い続け、得られないままにこの世を去っていった。マザーテレサは人に愛を与えたい、幸せを与えたいと願い続けた。マザーの生涯の方が満たされた生涯だったのではないか」。仕えられる生活よりも、仕える生活の方が、人生に本当の満たしを与えるのです。このことを私たちは覚えたいと願います。