1.違うものを受け入れる困難
・今日、私たちは2007年最初の礼拝を持ちます。しかし、私たちの新年はクリスマスの日に始まっています。私たちにとっては、今日が“降誕節第二主日”であることが、より大事な日付です。すなわち、キリストが来られて何が変わったのかを私たちは問題にして行きます。クリスマスの時、私たちは「神の子が地上に来られたが、人は誰もキリストを認めず、歴史はイエスの誕生日を知らない」ことを学びました。歴史はイエスの生涯にも、またその死にも無関心でした。私たちと係わりがないと思えたイエスの生涯が、係わりを持ち始めたのはイエスが復活され、それを見て、「この人こそ神の子であった」と告白する群れが生まれたからです。この群れの宣教によって教会が発展していきますが、初代教会はユダヤ人以外の人々には伝道しませんでした(使徒11:19)。聖書を読まず、神の戒めを守らない異邦人をも、神が救われるとは思えなかったからです。しかし、教会の思いを変える出来事が起こりました。異邦人コルネリウスの回心です。
・降誕節第二主日の今日、使徒言行録10章を通して、この出来事の意味を学んでいきます。使徒言行録は10章、11章の2章を割いて、ローマ人の百人隊長コルネリウスの回心物語を記します。ただ一人の人の回心にために、聖書がこんなに長い紙面を割くのは異例です。それはこの事件が世界史的な出来事だったからです。すなわち、神はユダヤ人だけでなく全ての人の救いを望んでおられることが事実を持って示され、このことを通して、福音はユダヤ人のための民族宗教から、すべての人をも包み込む世界宗教に発展していきます。
・10章からの流れを簡単に見ていきましょう。「カイサリアにコルネリウスという人がいた。・・・百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(10:1-2)。カイサリアはローマ総督と軍隊が駐留し、ローマによるパレスチナ支配の中心となった町です。その町に、コルネリウスという軍人がいました。彼はローマ人でしたが、聖書を読み、祈り、信仰心の厚い人でした。この人が祈っている時、主の使いが現れて言います「ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」(10:5)。コルネリウスは指示のままに、ペテロを迎えるための使者を送ります。
・同じころ、ヤッファの町にいたペテロにも幻が下ります。「ペトロは・・・天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。“ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい”と言う声がした。ペトロは言った“主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません”。すると、また声が聞こえてきた“神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない”」(10:9-16)。ユダヤ人は清い食べ物と汚れた食べ物を分け、汚れたとされる食べ物は決して食べません。しかし、神は今、「汚れた食べ物をも食べよ」と言われました。ペテロが幻の意味を思い巡らしていた時、コルネリウスの使いが来ます。ペテロは、幻の意味が、「ユダヤ人が汚れた者として交わらない異邦人の家に行きなさい」ということだったと悟り、迎えの人たちと共にコルネリウスの家に赴きます。
・ペテロはコルネリウスに会い、彼が幻を聞いてペテロを招いた事を知り、この出会いは神が起こされたことを知りました。だから、ペテロは語ります「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」。(10:34)。「神は人を分け隔てなさらない」、簡単な言葉のようですが、実は重たい言葉です。ユダヤ人はローマ人を嫌い、彼らとは交際しませんでした。そのユダヤ人ペテロが、神の働きかけの中に、異邦人コルネリウスに、福音を熱心に語って行きました。ペテロが語り続けていると、一同の上に聖霊が下りました。ペテロの言葉を聞いていた、コルネリウスとその家族が神を讃美し始めたのです。ペテロは言います「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受けるのを、一体だれが妨げることができますか」(10:47)。ペテロはコルネリウスと家族にバプテスマを授け、ここに初めて異邦人クリスチャンが生まれていきました。
2.その困難を聖霊は崩す
・コルネリウスの回心物語が教えることは、回心あるいは悔い改めと言う出来事は、当事者の信仰や人格によって生まれるものではないということです。コルネリウスは熱心な求道者でしたが、まだ割礼を受けていませんでした。信仰はありましたが、それを形あるものにはしていなかった、まだ傍観者に留まっていた人でした。そのコルネリウスに聖霊が働きかけてペテロを招かせ、バプテスマまで導きました。神の働きかけを通して、コルネリウスは傍観者から主体者となります。主体者になる、これはとても大事なことです。福音の真理は導かれて歩み続ける中で明らかにされていきます。傍観者に留まる人には真理は開示されないのです。傍観者が主体者になる、その行為がバプテスマを受けることです。
・ペテロも聖霊に動かされて行為しています。ユダヤ人の彼にとって、異邦人の家を訪ね、彼らと食事を共にすることは、モーセの律法に反する行為でした。“異邦人と交わるな、交わればあなたも汚れる”と教えられて育ったペテロに、聖霊は「神が清めたものを、あなたが清くないと言ってはならない」と導きました。ペテロがコルネリウスの家を訪ねた、この一見何でもないような出来事が、やがて世界史を変える出来事になっていきます。このローマ人の回心を通して異邦世界に福音が広がり始め、やがて、ローマはキリスト教を国教とします。イエスを十字架につけたローマ皇帝の子孫たちがキリストの前に頭を下げる、その第一歩がここに始まったのです。
・ペトロもコルネリウスも、この一歩を歩み出すために、多くのものを捨てなければなりませんでした。ペトロは律法に従った生活を捨てました。エルサレムに戻ったペテロは、教会の人たちから「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」と非難されています(11:3)。あなたは父祖伝来の律法を破り、民族の伝統を汚したと告発されているのです。コルネリウスもローマ人でありながら、ユダヤ人イエスの前に跪きました。これはローマ社会で生きるコルネリウスに多くの困難をもたらす出来事です。私たちがバプテスマを受ける時にも同じ困難が生じます。日本でキリスト者として生きることは、少数者として生きることです。イエスは言われました「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(ヨハネ17:14)。私たちは世に在りながら、世に属さない者として生きていきます。それにもかかわらず、神はバプテスマ決心者を起こして下さいます。聖霊の働きです。
3.バプテスマを受けなさい
・今日の招詞としてローマ14:1−3を選びました。次のような言葉です「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べても良いと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」。
・教会の中に食物をめぐる争いがありました。教会のある人たちは、肉を食べることを罪だと考えていたようです。当時、市場に出回る肉は、異教の神殿に犠牲として捧げられた動物の肉でした。従って、肉は汚れていると考える人々が出たわけです。他方、肉を食べる人たちは、偶像などないのだから食べても良いとし、食べない人を「信仰の臆病者」と軽蔑しました。一方、肉を食べない人たちは、食べる人たちを「罪人」と裁いていました。パウロは何を食べても良いと考えています。しかし、食べることによってつまずく人がいるのに、それでも肉を食べるのはいけないと言います「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません・・・キリストはその兄弟のために死んで下さったのです」(14:15)。
・私たちは多様な価値観と世界観を持ちます。教会の中にも多様な信仰のあり方があります。お酒を神の恵みとしていただく人もいるし、酒の害を見て飲酒は罪だと思う人もいます。どちらも正しいのです。しかし、そのことによってつまずく人がいるならば、正しさを主張することは罪となるのです。「神はこのような人をも受け入れられた」、この神からの迫りを自分のこととして受け入れていく。ペテロとコルネリウスは神の声に従うことを通して出会い、その出会いが異なる民族間の和解を生みました。
・職場で、学校で、家庭で、自分と違う人たちを受け入れないことによって、争いと憎みあいが起きています。しかし、「あなた方の間ではそうであってはならない」(マタイ20:26)。酒を飲んでもかまわないが、酒で兄弟がつまずくのであれば、酒を飲むのを止めなさい。隣人への愛が行為を制約します。キリスト者の自由は、自分の権利を相手のために放棄することです。「自分を捨てなさい。キリストはあなたのために自分を捨てて下さった」。キリストが私たちを赦してくれたのだから、私たちも他の人を赦します。たとえ誰かが私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしません。キリストは彼のためにも死んでくれたのです。違う者を受け入れることは非常に難しいことです。コルネリウスと和解したペテロが、やがてエルサレム教会の保守派の圧力で、無割礼の人と食事をするのを避けるようになったことを、私たちは知っています(ガラテヤ2:12)。ローマの国教となり、支配者になった途端に、教会がユダヤ人を迫害した歴史も知っています。アメリカでは白人と黒人が一緒に礼拝をしない現実を知っています。日本の教会の中に、異なる者に対する差別と偏見があることも知っています。しかし、「あなた方の間ではそうであってはならない」というイエスの言葉を私たちは聞き続けます。そして変えられる希望を持ちます。バプテスマを受けるとは、新しく生まれる、そのような大きな流れの中に、私たちが入ることなのです。