1.羊と羊飼い
・先週、私たちは、復活のイエスが弟子たちに現れ、そのことによって「ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて震えていた」弟子たちが、励まされ、再びイエスの弟子として生きるものとなったことを、ヨハネ20章から学びました。イエスはその弟子たちに新しい宣教命令を与えられます。ヨハネ21章は、イエスが昇天される前、ペテロを呼んで、「私の羊を養いなさい」と命じられたことを伝えています。
・ペテロはイエスの宣教命令に応えて、生涯を伝道者、牧会者として生きます。そして世を去るとき、その群れの世話を教会の長老、執事に託します「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。」(1ペテロ5:2)。イエスは昇天される前にペテロに牧会の業を託され、ペテロは後継者の長老たちに牧会を託して死にました。群れを養うという牧会の業はこのようにして代々受け継がれ、今日においては、牧師が羊の群れを養うものとされています。牧師とはラテン語パストアの訳であり、パストアとは羊を飼う者の意味です。牧師は教会に集う群れを養う責任を、キリストからの委託に基づいて持ちます。群れを養うとはどういうことか、牧会とは何か、その原点を、今日はヨハネ10章を通して学びたいと思います。
・ヨハネ10章の羊飼いの例えは、パリサイ人に対して話されています。イエスの時代、ユダヤ社会の指導者であったパリサイ派の人々は、神から与えられた律法を守れば救われると説きました。救いは人間が良い行為をすることによって与えられる、その良い行為とは、神から与えられた戒め=律法を守ることだと彼らは説きました。そのため、律法の規則を細部に至るまで守ることを人々に求め、人々が律法違反をしないかどうかを監視するようになりました。律法は本来的には「創造主である神を愛し感謝する」という行為ですが、時代が経つに従い、その精神は失われ、規定だけが先行する状況になっていきます。「神を愛する」という基本的な戒めが、やがて「神を愛するためには一日3回祈らなければならない」とか、「安息日を守らない者は神を愛さないものだ」とか、人間的な思いで、曲げられていきました。その結果、福音=良い知らせであるべき律法が、人々に重い荷を負わせるものになっていました。指導者たちは「ああしろ、こうしろ」、「ああしてはいけない、こうしてはいけない」と命令するだけで、民の平安のことはまるで考えません。そのため「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」(マタイ9:36)状態でした。
・このような時代背景の中で、イエスはこのたとえを語られています「私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」(10:7−8)。パレスチナでは羊が野獣や強盗に襲われるのを防ぐために、夜は石を積んだ囲いの中に羊を休ませます。羊飼いは朝、羊を囲いから連れ出し、牧草地に導いて草を食べさせ、夜は囲いの中に導きます。他方、泥棒や強盗たちは柵を乗り越えて羊を奪い、これを殺そうとします。イエスは、羊を飼う役割を与えられながら、羊を貪り、弱めるパリサイ派や律法学者たちを、「盗人であり、強盗である」と批判されています。
・イエスは言われます「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10:10)。そして言われます「私はよい羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる」(10:11)。羊の雇い人、お金のために羊を預かる者は、狼が来ると羊を捨てて逃げます。彼は羊のことを気にかけていないからです。しかし、良い羊飼い、本当の羊飼いは群れを守るために命がけで戦います、その結果命を落とすこともあります。良い羊飼いは「羊のために命を捨てる」者です。
・イエスはご自分の群れを守るために、十字架に死なれました。そのことを神は良しとされ、イエスを死から復活させられました。17節はそのことを示しています「私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる」。
2.囲いの外へ
・ヨハネ10章には、良い羊飼いの条件が説かれています。最初の条件は「羊を牧草地に導き、草や水を与えて養う」ことです。良い羊飼いの基本は、羊を養うこと、私たちの場合は、霊の糧である御言葉が正しく語られ、その御言葉で養われることです。二つ目は「襲い掛かる狼から羊を守る」ことです。真の牧者はイエスの委託により、その託された群れを守るために、自分を捨てなさいといわれています。現代の牧者=牧師はそのことを知り、自分の役割を理解しますが、しかし、弱さ故に羊の群れよりも自分を大事にするときがあります。牧者が群れを養わないで自分を養い始める時、教会の中に争いが起きます。主の民が争いあう、そのとき、教会は教会でなくなくなります。そのためには、祈りによる一致が大切です。祈るとき、争いはなくなります。祈りながら、相手をののしることは不可能だからです。
・最後に、「迷い出た羊を捜し求め、安全な囲いの中に戻す」ことも、牧者の大事な仕事です。それがヨハネ10:16の言葉です「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。先週、私たちは教会総会を開き、今年の教会標語として、「地域に福音を」という言葉を採択しました。このことは、良い羊飼いの三番目の役割、「囲いの外にいる羊を探しに行く」ということを、今年1年間の目標にしようと決めたわけです。
・囲いの外にいる羊とは誰か、その意味を知るために、今日の招詞として、ルカ15:4を選びました。次のような言葉です「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。
・取税人や罪人がイエスと食事をするために集まったとき、パリサイ派の人々がイエスを批判して言いました「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)。取税人とはローマのために税金を集める人々で、汚れた異邦人のために働く者として当時のユダヤ人社会から排斥されていました。罪人とは、律法を守らない人々、あるいは守ることができない人々です。日雇いで働く人は安息日を守ることも、一日に三回神殿で祈ることもできません。パリサイ人たちはそのような人たちを罪人として排除していたのです。しかし、イエスはそのような取税人や罪人に積極的に近づき、彼らと食卓を共にされました。彼らもまた「主の民」、父なる神が愛されている民であることを明らかにするために、イエスはこの「失われた羊」のたとえを話されました。「迷い出た羊がいれば、誰でも探しに行くではないか」。そしてイエスは言われます「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。
・ここにおいて、「囲いの外に出る」ことの意味が、明らかになります。「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」人たちを探し出しに行くことです。これがイエスの命じられた伝道です。「地域に福音を」という私たちの決意は、この地域の「主の民」を探しに行くことです。そして彼らをこの囲いの中に連れ帰ります。そのために大事なことが二つあるように思います。一つは、囲いの中にいる私たちが、囲いの門を開くことです。「どなたでもおいでください」、その姿勢を明確にすることです。先週の教会総会で、私たちは教会堂を改修して、車椅子の方も来ることのできる会堂にするために、お金を出し合うことを決議しました。これは地域の人々に、私たちの姿勢を見せるという意味で、とても大事な決議であったと思います。
・もう一つ大事なことは、この囲いの中が、本当の安らぎの場になることです。外には猛獣も泥棒もいるかもしれないが、この囲いの中は平安がある、来てよかった、これからも来たい、そのような教会にすることです。囲いの中で、外の世界と同じことがなされているならば、囲いに来る必要はありません。ここにくれば心が満たされる、ここには外の世界と違う何かがある、その何かとは、一言で言うと「キリストの平安」です。キリストが羊のために命を捨てられたように、ほかの人々のために働く決意をした人たちがいる共同体の建設です。そのためには、私たち一人一人が、自分のことよりも他の人のことを考える、自分を養わないで群れを養う牧会者になる必要があります。「万人祭司」、全ての人が祭司である、ルターのこの言葉を大事にしたいと思います。牧師はヨハネ10章の「良い羊飼いのたとえ」を自分に向けられた声として聞きます。同時に、皆さんもこの言葉が自分たちに向けて語られているとお思いになるならば、そのとき、この教会は変わって行きます。牧師だけでなく、全員が相互牧会を行う、そのような教会の建設です。私たちは「囲いの外に出て行くために、囲いの中に集められた」者であることを、今日は覚えたいと思います。