1.馬小屋で生まれられたイエス
・今日12月25日、私たちは、イエス・キリストの誕生日をお祝いして、礼拝の時を持つ。しかし、イエスがいつお生まれになったのか、歴史上はわかっていない。12月25日をイエスの誕生日として祝うようになったのは、4世紀頃からで、当時行われていた冬至の祭りを教会がキリストの誕生日に制定してからだ。冬至、夜が一番長い暗い闇の時、しかしそれ以上に闇は深まらず次第に光が長くなる時、人々は冬至の日こそ、救い主の誕生日に最もふさわしいと考えるようになった。今日はルカ福音書を通して、クリスマスのメッセージを聞いていく。
・ルカは最初に、キリストがどのような歴史の中で生まれて来られたかを記す「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(ルカ2:1-2)。ローマ皇帝アウグストゥスが世界を支配し、皇帝の部下キリニウスがシリアの総督であった時、シリア州の一部であったユダヤにおいて、ある出来事が起こったとルカは記す。その出来事とは、イエスの両親ヨセフとマリアが、住民登録をするために、ガリラヤのナザレから、遠いユダヤのベツレヘムまで、旅をする出来事だった。住民登録、今日で言えば国勢調査であり、目的は兵役と課税のためであった。
・ナザレからベツレヘムまで120キロ、山あり谷ありの道である。ヨセフの妻マリアは身重だったから、その旅は難儀であったろう。おそらく一週間以上も歩いてベツレヘムに着いた。たどり着いたベツレヘムの町は、住民登録をする人々であふれ、彼らには泊まる宿屋もなく、馬小屋に案内された。その馬小屋の中で、マリアは産気づき、幼子が生まれた。二人は生まれたばかりの子を布にくるみ、飼い葉桶の中に寝かせた。これがルカの語る救い主誕生の記事だ。
・この短い文章が示すことは、ユダヤはローマの植民地であり、ローマに税金を支払うために、全国の人々がその本籍地への移動を強制されたということだ。逆らえば、捕らえられ、殺される。命令に従って、イエスの両親は、遠いベツレヘムまで旅をし、旅先でイエスは生まれられた。そのベツレヘムはダビデの町だった。ダビデはイスラエルの全盛時代を築いた王、ダビデの末から救い主が生まれるとの預言を人々は信じていた。その預言どおり、ダビデの血を引く、一人の幼子が、ダビデの町に生まれられた。当時、救い主がこのベツレヘムに生まれられたとは誰も知らなかった。だから、歴史はイエスの誕生日を知らない。
2.アウグストゥスとイエス
・人間の歴史はイエスの誕生日を知らない。しかし、ローマ皇帝の誕生日は知っている。アウグストゥスは紀元前62年9月23日に、ローマの貴族の家に生まれた。成人してローマの支配者ユリウス・カエサルの養子となり、カエサル死後、アントニウス他の政敵との争いに勝利を収め、初代のローマ皇帝となった。彼の治世下、ローマは帝国として統一され、「ローマの平和」と呼ばれる繁栄期を迎える。人々は彼を「救い主」と呼んで崇めた。このアウグストゥスの時代に、ローマ帝国のはずれ、ユダヤの片田舎に一人の幼子が生まれた。
・ルカはイエスが生まれられた時、ベツレヘムの羊飼いに天使が現れたと記す。天使は言った「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(2:10-12)。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」、この人こそ救い主であるとルカは主張している。この記事を読んだローマの人々は嘲笑ったであろう「ユダヤ人の救い主を見よ、彼らの救い主は馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた。誰がこのような救い主を拝むのか」。
・このルカの記事は、私たちにも選択を迫る。あなたはアウグストゥスとイエスのどちらを救い主とするのかと。ローマ帝国の首都から発せられた命令は、遠いユダヤのヨセフとマリアをガリラヤからベツレヘムに連れてくる力を持っていた。そのベツレヘムで一人の幼子が生まれたのを、皇帝は知らないし、総督も知らないし、ユダヤの支配者も知らなかった。その幼子は成長し、ローマ帝国への反逆者として十字架につけられて死んだ。時のローマ皇帝テベリウスはイエスが死んだことも知らなかった。だから、イエスがいつ死なれたのかも、歴史は記録していない。しかし、その死から300年の後、ローマ帝国はキリスト教を国教とする。ローマ皇帝がキリストの前に、頭を下げたのだ。今日、アウグストゥスを救い主として礼拝する者はいない。しかし、何十億と言う人が今日、キリストの前に頭をたれてクリスマスを祝う。何がこの逆転をもたらしたのか。
3.貧しい人、泣いている人こそ幸いだ
・今日の招詞にルカ6:20−21を選んだ。次のような言葉だ「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。
・イエスのもとに病気や障害を持つ群集が集まってきた。イエスなら、何とかして下さる、この病気や苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれると彼らは願っていた。その彼らにイエスは言われた「貧しい人々は幸いだ。飢えている人々は幸いだ。泣いている人々は幸いだ」。人々はびっくりした。貧しい人、泣いている人が幸いだとは思えなかったからだ。私たちもびっくりする。何故貧しい人が幸いなのか、貧しい人が豊かになることこそ幸いではないか。イエスは言われる「貧しい人は神を求める。助けてもらわないと生きていけないからだ。そして求めるものには神は応えて下さる。豊かな人は現在に満足して、神を求めない。求めない者には祝福はない」。
・泣いている人は何故幸いなのか。子供を亡くして泣いている人がいる。不治の病を宣告されて絶望している人がいる。彼らは慰めの言葉さえ拒否するだろう。しかしやがて、悲しいのは自分だけでなく、大勢の人たちが泣いている現実が見えてくる。「神は何故このような事をされるのか」、それを考え始めた時、神の声が聞こえてくる。成功したり富を得たり喜んでいる時には、この神の声が聞こえない。悲しみに打ちのめされて、初めて神の声が聞こえてくる。「貧しい人」はこの世に本当の救いがないことを知ったから神を求める。「悲しむ人」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣く。
・人間の求める幸福は思いが自己に、現在に集中する。世の幸福は、富であり健康であり成功だ。それらは全て自己の為のものだ。私の富、私の健康、私の成功、私の栄誉。そして、誰もが欲しがるから、競争が起こり、誰かが勝てば誰かが敗れる。この世の幸福は他者の犠牲の上に成り立つ。神はこのような幸福を喜ばれない。だから、現在は健康でも、その健康はやがて崩され、勝者も何時かは敗者に落とされる。生きている者は必ず死ぬ定めにある。現在の幸福は何時崩されるのかわからない幸福だ。このような刹那的なものが幸福なのだろうか。
・私たちはイエスの言われる幸福、「貧しい人、飢えている人、悲しむ人こそ幸いだ。彼らは神の声を聞く」という言葉は非現実的だと思ってきた。しかし、世の幸福、富や健康や成功がはかないものであるとしたら、イエスの言われる幸福こそ現実的である事を知る。暗い闇を通った者こそ、光を知るのだ。私たちはそれをイエスの生涯を見て知った。だから、私たちは神の子が、その誕生日もわからずに生まれてこられた、闇の中で生まれて来られた事を感謝する。馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた方こそ、私たちの悲しみも苦しみも知る方だ。そのイエスが、ローマ皇帝アウグストゥスに勝たれた。このことは、私たちに、生き方を変える事を求める。「貧しい人、飢えている人、悲しむ人こそ幸いだ。彼らは神の声を聞く」、ここに真の幸福があるのだ。