江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年2月6日説教(マタイ14:22−36、私たちは一人ではない)

投稿日:2005年2月6日 更新日:

1.嵐に悩む弟子たち

・イエスはガリラヤ中を回って、教え、宣教され、人々の病をいやされた。大勢の人々がイエスの周りに集まってきた。ある時、イエスの話を聞くために、ガリラヤ湖のほとりに数千人の人が集まった。食べるものもない群集を憐れまれたイエスは、手元の五つのパンで、5千人の人を養われた。群集はその奇跡に驚き、賞賛の声が大波のように広がった。ヨハネ福音書は「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と記す(ヨハネ6:14-15)。興奮状態の中で、今にも暴動が起こりそうになった。弟子たちもまたこの興奮に巻き込まれていた。そのため、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸に行かせ、群衆を解散させ、ご自身は祈るために山に登られた(マタイ14:22)。

・弟子たちが舟に乗ったのは夕方であった。しかし、山の方から強い北風が吹き、舟は湖の真ん中で立ち往生してしまった。強風が吹き荒れ、波は逆巻き、船は嵐に翻弄されている。弟子たちは必死に舟を進めようとするが出来ない。時はいつの間にか、明け方に近くなった。イエスは対岸からそれを見て、弟子たちを救うために、湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれた。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと思った。水の上を歩くことは人には出来ない。その出来ない出来事が今、目の前に広がる。弟子たちがおびえるのは当然だ。しかし、「私だ、おそれることは無い」というイエスの言葉に弟子たちは我に帰る。嵐は続いている。しかし、イエスが来られたことで安心感が広がった。

・ペテロはイエスの言葉に反応する「あなたでしたら、そちらに行かせて下さい」。ペテロは途方も無いことを言い出す。人が水の上を歩くことなど出来るわけがない。しかし、ペテロは歩き始めた。彼は自分が何をしているかに気づかず、ただ、助けるために来られたイエスだけを見つめている。その時は歩けた。やがて、風の音が耳に入り、大波が目に入る。途端にペテロは怖くなった。イエスへの集中が途切れた。ペテロは水に沈み始める。ペテロは叫ぶ。「主よ、助けてください」。イエスはペテロに手を伸ばし、体を引き上げられた。二人が舟に乗り込むと風は静まった。

・ペテロの海上歩行は惨めな失敗に終わった。しかし、弟子たちは誰もペテロの失敗を笑わなかった。彼らは、ペテロを捕らえられたイエスの手を見た。弟子たちは告白する「あなたこそ神の子です」。弟子たちの初めての信仰告白だ。弟子たちはイエスが水の上を歩かれたから、神の子と告白したのではない。嵐を鎮められたから、そう思ったのでもない。沈みそうになった者の手を捕らえて下さったから、イエスを拝した。

2.私たちのところに来られる方

・今日の招詞に詩篇107:25-29を選んだ。次のような言葉だ「 主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」。

・嵐が起きると、舟に乗っている人は、「上に、下に」大きく揺さぶられ、勇気はくじけ、酔った人のようによろめく。嵐は怖い。ある人は、嵐は自然現象だから、起きたら、通り過ぎるまでやり過ごすしかないと考える。別の人はそうなるように定められているのだから、仕方がないとあきらめる。自分は罪を犯したから、罰として嵐が与えられたのだと思う人もいよう。しかし、聖書は、嵐は「主が起こされる」と言う。「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」(107:25)。主によって起こされるとしたら、主に訴えれば、嵐は取り去られる。だから、詩篇の作者は訴えた「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」。

・人は海を怖れる。海は底なしのもの、恐ろしいものの象徴だ。そして、人生は海を航海するのに似ている。平穏な時には、私たちは自分の能力、可能性、築き上げた生活の基盤を信じて生きていくことが出来る。自分の力で生きていると考える。しかし、嵐になると、私たちはあわて惑う。嵐の形態は人によりまちまちだ。ある人には、事業の失敗や、家族の死や病気、あるいは離婚等の激しい嵐が来るだろうし、別の人には、家族内の不和、友人の裏切り、仕事や学業の挫折等の静かな嵐として襲って来る。その時、これまで磐石だと思っていたものが何の役にも立たない事を知る。全てが虚しくなり、生きていてもしようがないと思うこともあろう。私たちは苦しみ、もだえる。そのもだえを通して、私たちは自分が生きているのではなく、より大きな存在に生かされている事に気づく。そして叫ぶ「主よ、助けてください」。

3.私たちは一人ではない

・マタイ14章の文脈の中で、嵐とは何かを、もう一度考えてみよう。弟子たちは、イエスに「行きなさい」と命じられて舟に乗った。「いやです」と拒否すれば、嵐に遭うことも無かったかもしれない。しかし、嵐に遭わなければ、沈みかけた時に手を伸ばして下さるイエスを知らなかった。嵐を迂回する、災いを避けることが最善なのではないとマタイは言っている。次に、嵐に遭って前に進めない時、あきらめて引き返すことも可能だ。弟子たちは向こう岸に行こうとして逆風にあったのだから、こちら側へ帰ることは出来た。しかし、引き返せば今までの苦労は水の泡になり、一晩中苦闘したことが無意味になる。嵐から、あるいは試練から、逃れる道は唯一つ、それは突き当たっている当の問題をくぐりぬけて、向こう側に行く道だ。弟子たちは湖の真ん中で立ち往生し、前にも後ろにも進めなかったが、彼らは耐えた。そこにイエスが来て下さった。イエスが舟に乗り込まれると、風雨は収まり、向こう岸に行くことが出来た。

・助け主が来られる。それがこの物語の主題だ。弟子たちは嵐の中で苦闘している。イエスは岸からそれを見て、彼らを救い出すために歩き出される。弟子たちには暗くて見えないが、救いは既に始まっている。見えない時には、その救い主を幽霊と誤認しておびえる。しかし、「私だ、恐れることは無い」と言う声で、救いが始まった事を知る。それでも私たちは、取り巻く現実を見て、怖くなって、沈む。苦しみに押しつぶされてしまう。人が自分の事だけを、自分を取り巻く苦しさだけを考える時、その人は沈む。これは経験的事実だ。しかし、私たちを助けるために来られた方を見つめ続ける時、私たちは水の上を歩くことが出来る。仮に不信仰のために沈んでも、助けの手が来る。ペテロはイエスから目をそらした。しかし、イエスはペテロを見つめ続けておられた。ペテロの手はイエスに届かなかった。しかし、イエスが手を伸ばして、捕らえて下さった。

・アウグスチヌスは言った「私には出来ませんが、あなたによって出来ます」。聖書が教えることは、嵐が発生しないことが大事な事ではなく、嵐の只中において、神の救いを体験することこそ、重要だということだ。私たちは困窮の中で救い主と出会うのだ。泣いたことの無い人は信仰を持てない。私たちは泣くことを通して、私たちを造られた神が、私たちに呪いではなく、祝福を与えようとしておられる事を知る。嵐は祝福の第一歩なのだ。

・嵐の中を一人で歩くことは恐怖だ。しかし、二人であれば、それほど怖くない。しかも、同伴される方が、この嵐を取り去る力をお持ちであれば、何も怖くない。キリストを心に受入れた人にも危険は迫る。不安になり、動揺し、おじまどう事もある。現在、そのような苦しみの中にある方もいるだろう。しかし、私たちは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来、その声に応えて、助け主は来て下さる。現在、どのような苦難があろうとも、その苦しみは喜びに変わる。最後に詩篇126編の言葉を読んでみよう。次のような言葉だ「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩篇126:5-6)。私たちは一人ではない。イエスが共に歩いて下さる。この信仰が与えられていれば、他に何も要らないではないか。

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