1.イエスのバプテスマ
・1月第二主日の説教箇所としてマタイ3:13−17が与えられた。公現日に読まれる個所だ。教会歴では1月6日を公現日、イエスが公に現れた日とする。今年の暦では、先週の木曜日だ。ガリラヤのナザレでお育ちになったイエスは、30歳の時にナザレを出て、ヨルダン川に来られ、ヨハネからバプテスマ(洗礼)をお受けになった。この日をイエスが、公生涯に入られた時、公現日として教会は祝う。お正月に読むのにふさわしい所だ。
・「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである」(マタイ3:13)。イエスが来られた=原文ではイエスが「現れられた」となっている。ヨハネがヨルダンの荒野に現れた(3:1)と同じ動詞=パラギノウマイを用いる。歴史的に見れば、バプテスマのヨハネと呼ばれた預言者が、先駆者として神の国運動を始め、その呼びかけに応えられたイエスが、ヨルダン川に来て、ヨハネからバプテスマを受けられた。その歴史的出来事の中に、マタイは神の出来事を見ている。現れた、ヨハネが神に遣わされて荒野に現われ、続いてイエスが神に遣わされてヨハネのもとに現れられた。神の出来事がヨハネの出現により事実となり、イエスの出現により完成されたとマタイは言っている。イエスの最初の行為はバプテスマであった。バプテスマからイエスの公生涯は始まる。私たちも肉的生涯は出生から始まるが、霊的生涯はバプテスマから始まる。
・バプテスマを申し出られたイエスに対し、ヨハネは言った「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」(3:14)。あなたは罪が無いのだからバプテスマを受ける必要はないとヨハネは言った。それに対してイエスは答えられた「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。正しいこと、原文では「ディカイオスネー=義」となっている。「神の前に義であることが今は必要なのだ」とイエスは答えられている。この「義」の反対の言葉が「罪」であり、聖書の罪=ハマルティアは「的をはずす」という意味だ。的をはずす、真に向き合うべきものに向き合っていない、神ではなく、自分が中心になっている状態を聖書は罪と呼ぶ。
・聖書の言う罪は、英語のcrime=犯罪ではなくsin=内面の罪だ。神から離れる、自分の思いで生きる時、人は欲するものを自分のものとしようとする。それが貪りだ。自分が持っていないものを他者が持っている時、心の中に妬みがおこり、妬みはそれを自分のものにしたいという衝動を招き、ある時は盗みとなり、相手が渡さない場合は力ずくで取るという傷害や殺人の行為になる。心の中にある罪(sin)が盗みや殺人と言う外に現れた犯罪(crime)になっていく。この内面の罪こそ、罪の根源=原罪と言われるものだ。。
・従って、罪からの救いとは、自己中心の思いからの解放、神の思いに従う=義を求めることになる。悔い改める=メタノイアという言葉は「向きを変える」という意味だ。自分を向いていた心を神の方に向き変える。神なき世界は、交通信号の無い交差点のようなものだ。信号がなければ、行きたい者はかってに行き、他者と衝突し、「譲れ」「譲らない」の争いになる。この世を生きるとは、他者との衝突と争いの繰り返しだ。この混沌から解放され平安を得る唯一の道は神に向くこと、神に向くことの大事さを示すために、今はバプテスマを受けるとイエスは言われている。そのイエスがバプテスマを受けられた時、天が開き、声が聞こえた「これは私の愛する子、私の心に適う者」(3:17)。神はイエスの行為を「良し」とされ、喜ばれた。
2.私たちのバプテスマ
・今日の招詞にローマ6:3−4を選んだ。次のような言葉だ「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。
・パウロはバプテスマを受けるとは、キリストの死に預かることだと言う。キリストの救いに預かることではなく、キリストの恵みに預かることでもない。キリストの死に預かることだ。そのキリストは十字架で処刑された。キリストは何故処刑されたのか。それはキリストが罪人と言われた人たちと交わられ、非難する人たちを断罪されたからだ。イエスは言われた「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。
・徴税人とは占領者ローマのために税金を取り立てる人たちで、汚れた異邦人のために働く者として社会からはじき出されていた。娼婦は汚れた職業の女として、卑しめられていた。徴税人や娼婦は社会から受入れられなかったために、自分の罪を知った。知らざるを得なかった。そのため、「罪を悔い改めよ」というヨハネの招きに答えた。当時の支配階級であったサドカイ人(祭司)やパリサイ人(律法学者)は、罪人と交わることは自分が汚れることだと考えていた。罪人は汚らわしいと考える人は、自分を罪人とは思わない。自分は正しい、彼らとは違う、そう思う人たちに対して、イエスは「あなたが心の中で思っていることは同じではないか。心の中の思いこそ罪ではないか。それがわからないなら、あなたは目が見えないのだ」と言われた。支配者たちは怒り、イエスを十字架につけた。
・日本の社会は罪を犯した人を、例えその人が服役して償いを済ましたとしても受入れない。自分は犯罪者ではないと持っているからだ。自分が罪人であることを知らないから、あの人は罪人だと言って、社会からはじき出す。奈良の幼児殺害事件を受けて、性犯罪の犯罪歴のある人の住所や氏名を公表しようと言う動きがある。性犯罪者は再犯の可能性が高いから、自分達を守ろうとする動きだ。徴税人を疎外したイエス時代のパリサイ人と同じだ。イエスは罪びとを招かれた。そして、私たちも罪びととして招かれ、今教会にいる。バプテスマを受けるとは、イエスの死に預かること、イエスが歩まれた道を歩くことだ。このことが長い間わからなかった。私は20歳の時にバプテスマを受けた。高校時代から聖書を読み始め、大学になって教会に行き始め、受洗した。その時、自分が偉くなったような気がしていた。自分が、どうしようも無い罪人であることを知らされたのはそれから25年後、45歳の時だ。過ちを犯して、過ちの報いが自分の生活を具体的に犯し始めて、家族関係が息苦しいものになって初めて、罪とは何かがわかった。自分の惨めさに涙を流した時、初めて、徴税人や娼婦のつらさを知った。その時、二回目のバプテスマを受けたように思う。
・ヨハネのいう火のバプテスマだ。「私は水でバプテスマを授けるが、私の後から来る方は・・・聖霊と火でバプテスマをお授けになる」(マタイ3:11)。水のバプテスマは痛くない。救われた喜びで満たされる。火のバプテスマは痛くて苦しい。長い苦しみの後にくる。人は水のバプテスマでイエスを知り、火のバプテスマでイエスを着るのだと思う。火のバプテスマは自分が救われるためと言うよりも、神の救いの業に共に参加するためだ。自分が泣いて初めて、この世には泣いている人が多いことに気がつく。自分の涙を神がぬぐって下さったから、苦しむ人の涙をぬぐいたい。その時、神の声が聞こえてくる「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。その声に促されて、私たちも神の子としての新しい生活に入っていく。