江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年4月25日説教(ヨハネ21:1-14、舟の右側に網を下ろしなさい)

投稿日:2004年4月25日 更新日:

1.復活のイエスとの再会

・イエスは復活されて、最初にマグダラのマリアに御自身をお示しになった。復活日の朝のことである。その日の夕方には、弟子たちのいるところに現れ、八日目には弟子のトマスのために、再び現れられた。それからイエスは弟子たちに「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」と言われた(マタイ28:7)。そのガリラヤでのイエスとの再会を伝えるものが、今日のヨハネ21章の記事である。

・弟子たちは、イエスの指示に従い、自分たちの故郷であるガリラヤに戻って、そこでイエスを待った。待ったが、イエスは現れない。弟子たちは失望し始めた。イエスの復活は、十字架に絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなったが、まだ彼らは半信半疑だった。自分達が見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのか、復活されたのであればまた来られるはずではないか、何故来られないのか、そのような疑問が次から次に押し寄せた。「もし、イエスが来られなければ、自分たちは何をすればよいのか」、彼らは元々ガリラヤの漁師だった。不安な心を静めるために、彼らは再び漁に出ることにした。

・ペテロと他の六人たちは漁に出た。漁に最適な時間は夜中だ。彼らは舟を出し、夜通し、網を打ったが、何の収穫もなかった。彼らは、心も体も疲れ果てて、岸に向かった。夜明けのことである。その時、一人の人が岸に立ち、「こどもたちよ、魚は取れたか」と彼らに呼びかけた。朝早く、漁から帰る船の魚を買うために仲買人が岸辺に来る。弟子たちはその人が仲買人と思い、答えた「何も取れません」。あたりは暗く、その人の顔は見えなかった。その人は弟子たちに言った「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」(ヨハネ21:6)。弟子たちはだめで元々と思い、網を打ったところ、網を引き上げることの出来ないほどのたくさんの魚が取れた。

・この出来事を見て、弟子の一人、ヨハネは、その人がイエスであることに気づいた。このような奇跡を起こせる方はイエスしかいない。そしてペテロに言った「あの方は主だ」。ペテロはそれを聞くと、湖に飛び込んで岸の方に泳ぎ始めた。一刻でも早く、イエスに会うためだ。ペテロの後ろから、多くの魚を積んで重くなった舟が続いた。岸に着くと、彼らは網を下ろし、魚をかごの中に移した。魚は153匹もいた。イエスと弟子たちは、パンと魚で共に食事をとった。弟子たちにとってこの日の会食は忘れられないものになった。やがて教会が形成された時、彼らは教会のシンボルとして「魚」を選んだ。魚、ギリシャ語でΙΧΘΥΣ(イクスース)と書き、これは「イエスス・クリストス・セウウ・フイオス・ゾテール=イエス・キリスト、神の子、救い主」という意味の言葉の頭文字を合わせたものである。イエスと共に、パンと魚を分け合って食べた。その記憶が初代教会のクリスチャン達を支えたのだ。

2.信仰と生活

・弟子たちはエルサレムで、復活のイエスに出会っている。そして、イエスの指示でこのガリラヤに来た。それにもかかわらず、イエスの到着が自分達の予定よりも遅くなると、不安になり、自分達が出会ったイエスは幻ではなかったのかと思い始める。人間の信仰とはこの程度のものだ。復活のイエスに出会って感激する。しかし、感激はすぐにさめ、やがて、不信に囚われてしまう。私たちの生活もそうだ。神が私たちを養って下さると私たちは信じている。しかし、今の職場を仮に解雇されたら、「これからどのように食べていけば良いのか」と思い悩み始める。神が養われることを本当には信じていないのだ。信仰がまだ私たちの生活を規定していない、これが私たちにとって最大の問題だ。イエスが復活された、そのことがまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていないことをヨハネ21章は私たちに示す。弟子たちが、彼ら自身の十字架を背負って歩き始めるのは、ペンテコステの時に聖霊を受けてからだ。まだ、時間が必要だ。

・先日、神学校のある学生から、教会の移籍についての相談を受けた。彼の所属する教会はこれまでも紛争が多く、牧師が2−3年で交代していた。昨年の4月、アメリカで学んだ若い牧師を招聘したが、教会員の間にその牧師に対する不満が強まり、先日の教会総会で三人の執事が任期半ばで辞任を申し出た。彼らは教会を出て行くことも宣言したと言う。学生は、争いのない教会で信仰生活を過ごしたいので、どこか良い教会を紹介してほしいとの相談だった。このような事態があちらこちらの教会で起きている。過去に私たちの教会でも起きたし、近隣の教会でも同じような争いが起こり、牧師が辞任を申し出たと聞いた。何故、このようなことが起こるのか。イエスが誰のために十字架に死なれ、誰のために復活されたのか。イエスの出来事が、自分の出来事になっていない故の人間的争いの故と思う。私たちが信仰を貫くためには、繰り返し復活の主に出会う、出会い続けることが必要だ。自分達の思いで漁に出ても何も取れない、その時「舟の右側に網を下ろしなさい」とのイエスの言葉に従うときに多くの収穫が与えられることを学びなおすことが必要だ。

3.舟の右側に網を下ろしなさい

・今日の招詞にルカ5:4−6を選んだ。次のような言葉だ。

「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」

・これはペテロがイエスの召命を受けた時の記事だ。ペテロはガリラヤの漁師だった。ある時、漁に出たが何もとれず、疲れて網を片付けていた。そこにイエスが来られ「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。ペテロは専門の漁師だ。その彼が一晩中漁をして何も取れなかった。そのペテロに、イエスが再び網を打ちなさいと勧めている。ペテロは反発したが、イエスの威厳あるさまを見て従った「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。そうすると、網が破れるほどの魚が取れた。ペテロはイエスの前に跪いて言った「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(ルカ5:8)。この出来事が契機になって、ペテロはイエスに従う者となり、それから三年が経った。イエスは、復活の出来事をまだ理解しないペテロのために、同じ奇跡を繰り返された。だから、愛弟子ヨハネは、「舟の右側に網を下ろしなさい」と言う言葉に従って網を打ち、多くの魚が取れた時、この出来事を思い出し、岸辺にいる方がイエスだとわかった。

・私たちは、自分の考えでいろいろなことを為そうとする。それがうまくいかないとき、私たちは信仰が揺らぐ。そして言う「神は何故助けて下さらないのか」。しかし、必要なことは、自分の考えとは異なる指示を受けても、それに従っていく心だ。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」、その時、多くの収穫が与えられることを繰り返し経験することを通して、私たちは信仰者として成長していく。

・「舟の右側に網を下ろしなさい」。ネパールで医療支援活動をしているJOCS(キリスト教会海外医療協力会)という団体がある。その団体の標語が「舟の右側に網を下ろしなさい」という、このヨハネ21:6の言葉だ。食べるものがない子供たちに食べ物を与えるのではなく、漁の仕方を教えることを通して、魚を取る業を教える。ネパールで十分な医療を受けられない人に対し、医師や看護婦を派遣して医療を与えるのではなく、ネパール人の医師や看護婦を養成するための活動に従事する。医療を提供するだけでは、派遣の医師や看護婦がいなくなれば、元の木阿弥だ。しかし、現地での医師や看護婦を養成すれば、派遣者がいなくなっても、医療活動は続く。この団体において、聖書の言葉が彼らの活動を規定する力になっている。私たちも今日の御言葉「舟の右に網を下ろす」と言うことが、私たちの毎日の生活にとって何なのかを求め始めた時、復活のキリストに出会う。聖書では、右は神への道であり、左は人間の思いだ(マタイ25:33、羊は右へ、山羊は左へ)。どうすれば私たちの業ではなく神の業が現れるかを考える。先の教会の例で言えば、牧師を責めて辞任に追い込んでも、そこには混乱しか生まれない。そうではなく、どのように牧師を支えていけば神の業が現れるかを求める。その時、私たちは、信じる者とされていくのだ。

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