江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年4月18日説教(ヨハネ20:19-29、信じる者になりなさい)

投稿日:2004年4月18日 更新日:

1.弟子たちへの復活顕現

・十字架で死なれて3日目の夕方、イエスは弟子達のところに現れられた。弟子の一人トマスはそこにいず、他の者達が「主に出会った」と言っても信じなかった。そのトマスのために、イエスは再び現れられる。それが、復活から8日目の出来事である。先週、私たちは復活の朝に、イエスがマグダラのマリアに出会われ、「もう泣かなくとも良い」という慰めの言葉を与えて下さったことを聞いた。それから8日たった今日、私たちは復活のイエスがトマスのために現れ、「信じる者になりなさい」と言われた言葉を聞く。

・最初にイエスが弟子たちに現れた場面から見ていこう。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)。弟子たちはイエスこそ、イスラエルを救うメシアだと信じて従ってきた。そのイエスがローマに抵抗もせずに捕らえられ、十字架で死んでいった。「この人はメシアではなかった。全ては無駄だった」、弟子たちは生きる目標を失くして、打ち沈んで家に閉じこもっていた。また彼らは、イエスのために死ぬ覚悟を決めていたが、実際には怖くなり、イエスを見捨てて逃げた。そのことが、深い自責と後悔の思いで彼らを苦しめていた。更には、イエスを捕らえた勢力が自分たちにも追求の手を伸ばしてくるのではないかと恐れていた。イエスが現れる前、弟子たちは、体は生きていたが、魂は死んでいた。

・その日の朝、復活のイエスがマグダラのマリアに現れたことを、彼らは聞いていた。しかし、イエスが復活されたとは信じていない。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)。誰が「見ないで信じる」ことが出来よう。その弟子たちにイエスが現れた。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)。弟子たちは復活のイエスに最初に出会ったとき、イエスを幽霊だと思ったのだ。その彼らにイエスはご自分の手とわき腹をお見せになった。そこには十字架につけられた時の釘穴と、刺された槍の跡が明白に残っていた。弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることをやっと信じることが出来た。そして、弟子たちは喜びに包まれた(20:20)。ここに二つの復活がある。死からよみがえられたイエスの復活と、絶望と恐怖からよみがえった弟子たちの復活である。

・復活のイエスはその後も、何度も弟子たちに現れた。人は「見ないで信じることはできない」から、「見て信じなさい」とその姿を現されたのだ。私たちも見て信じる。私たちはキリストの弟子として生きることを決意した時、バプテスマを受ける。バプテスマでは、私たちの体は水の中に沈められる、そのことにより私たちも十字架に死ぬ。そして水から引き上げられ、私たちもよみがえりを体験する。このバプテスマは、弟子たちが経験した十字架と復活のイエスとの出会いを、私たちも経験する出来事だ。バプテスマを通して、イエスに出会い、「信じる者になりなさい」と言われているのだ。

2.トマスへの復活顕現

・イエスが弟子たちに現れた時、トマスはそこにいなかった。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ってもトマスは信じない。彼は言う「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(20:25)。トマスはイエスのために死のうとさえ思った人物だ。イエスが危険の待つエルサレムに帰ろうと言われた時、トマスは言った「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)。しかし、イエスが捕らえられると、怖くなって逃げた。彼は自分の弱さを責め続けていた。安易に赦されるとは思えない。他の弟子たちのように、単純に信じることは出来ない。その彼のためにイエスが再び体を示された。復活から8日目の出来事である。イエスはトマスを見つめて言われた「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(20:27)。

・イエスはトマスだけを目指して来られた。そして、私の傷に触れよと言われた。「私はお前が神を信じることができることを願って十字架に死んだ。まだ信じることが出来ないならば、私はもう一度十字架にかかる。お前のためであれば、何度でも十字架につく」とイエスはトマスに言われたのだ。イエスは迷える一人を救うために何度でも来られる。この言葉を前にトマスはひざまずき、言う「わが主、わが神」。ここに初めて、イエスを神と認める信仰告白が為された。イエスを神と信じ、彼の前に最初にひざまずいたのは、ペテロでもヨハネでもない、トマスだった。

・伝承によれば、トマスはインドにまで伝道に行った。南インドには「聖トマス教会」があり、トマスが立てた教会だという伝説が残っている。一番弱いと思われた弟子が、ひとたび復活のイエスに出会うと、当時としては、地の果てと思われたインドにまで出かけていく。十字架を見つめるとは、自分の現実の姿を知ることだ。どんなに勇ましく「あなたのために死にます」と言っても裏切る。他の人が「主を見た」と証言しても信じることが出来ない。そのような不信仰の存在であっても、復活のイエスとの出会いにより、変えられるのだ。復活は、出会った人に命と力を与える出来事なのだ。トマスは多く罪を犯したから、多く赦され、多く赦されたから、多く愛したのだ。

3.教会につながっていなさい

・今日の招詞にヨハネ15:5を選んだ。次のような言葉だ「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」

・トマスは何故、信じることが出来なかったのか。イエスは弟子たちの群れに現れたが、彼はその時、その群れにいなかった。だから復活のイエスに会えなかった。トマスに格別の用事があったとは思えない。トマスは不安からか、絶望からか、弟子の群れから離れていたのだ。群れから離れていたからイエスに会えなかった。

・しかし、トマスはその群れに帰ってきた。おそらくは復活のイエスが現れたとの話を聞いたからだと思われる。帰ってみると、他の弟子たちは「私たちは主を見た」と喜び沸き立っている。彼は違和感を覚え、反発し、「あの方の手に釘の跡を見、その釘跡に指を入れてみなければ信じない」と高言した。しかし、それでも群れを離れなかった。だから、イエスが再度現れた時、トマスはイエスに出会い、その出会いが彼に命と力を与えた。人は一人では信仰をまっとうできない。だから、信仰者は教会を形成し、共に集い、共に祈るのだ。「教会につながっていなさい。たとえ、教会でいやなことがあり、いやな人がいても教会につながっていなさい。教会の主はイエスであり、教会を通して私たちは主に出会うのだから」。

・私たちは教会につながることによってイエスにつながる。その教会は、篠崎でも新小岩でも、市川大野でも良い。また、カトリックでもルーテルでも良い。神の言葉が語られ、会衆がその前に跪くところであれば。トマスも教会につながっていたから、救いを得た。私たちも、教会に、イエスに、つながり続けよう。

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