1.伝道の難しさ
・7月12日と13日に、私たちの教会は2日間の特別伝道集会を持った。西川口教会からゴスペル讃美チームを招き、5000枚の案内チラシを近隣に配布し、名前の分かっている方には案内状を出した。私たちは多くの方が来てくださるだろうと期待した。ゴスペルに関心を持っている人は多いし、土曜休日の人も多いから。結果は厳しいものだった。土曜日の1時半に会堂に集まってくれた方は教会員の方を中心に20名に満たず、新来の方はいなかった。主催者として心が弾まなかった。何故、皆さんは来てくれないのか。何故私たちの祈りが聞かれないのか。正直、落ち込んだ。しかし、讃美集会が進むうちに、その落ち込みが喜びに変わっていった。そこには心から主を讃美する演奏者がおり、讃美に声を合わせてくれる20名の会衆がいた。そこには宝があった。
・伝道の現実は厳しい。いくら呼び掛けても、何の応答もない時がほとんどだ。その厳しさに負け、「もう十分です。ここにはあなたの民はいません」と私たちは言う。そのような時、私たちに神の励ましの声が聞こえる「あなたはここで何をしているのか。あなたは何故意気消沈しているのか。私はあなたと共にいる。私はあなたに7千人の人を残した。あなたの来た道を引き返し、あなたのやるべきことをしなさい」。イスラエルには多くの預言者が立たされ、神の言葉を伝えたが、人々は聞かず、預言者たちはそれぞれに挫折し、弱音を吐いている。その人々に神は言われた「立て、私はあなたに私の民を残した」。その言葉を最初に受けたのが、預言者エリヤである。
2.弱音を吐くエリヤ
・エリヤは旧約聖書においてはモーセと並ぶ大預言者で、「神の人」とまで言われた人物であった。そのエリヤが私たちと同じ弱さを持つ人間であったことを示すのが列王記上19章だ。紀元前9世紀ごろ、国は北のイスラエルと南のユダに分裂していたが、エリヤが現れたのは北イスラエルの7代目の王アハズの時代である。イスラエルはアラム(シリヤ)に対抗するためにフェニキアと同盟を結び、王の娘イゼベルをアハズの妻に迎えた。このイゼベルがイスラエルに偶像神バアルの信仰を持ち込んだ。バアルは雨をもたらし、農作物を実らせてくれる豊穣の神としてカナンでは古くから信仰され、イゼベルの嫁入りと同時に、多くのバアルの祭司がイスラエルに入り、偶像信仰を広めた。
・偶像というと、私たちは神像や仏像を拝むことと考えやすいが、偶像礼拝の本質は自分の利益のために神を拝むことだ。病気をいやしてくれれば拝むし、災いを遠ざけてくれれば拝む。ご利益がなければ拝まない。そこでは神は人間のためにいる。イスラエルの人々も拝めば豊作をもたらしてくれるというバアルの前に頭を下げた。国中にバアルの預言者があふれ、バアルにひざまずかない人々は殺されていった。この中で立てられたのがエリヤで、エリヤは誰が天地を支配しておられるかを示すために、神はイスラエルに旱魃を下されると預言した。エリヤの預言どおり3年半にわたって雨は降らず、イスラエルは日照りと旱魃に苦しめられる。イゼベルはエリヤを憎みこれを殺そうとして追っ手を送り、エリヤは恐れて荒野に逃れた。その荒野でエリヤは主に向かって弱音を吐く「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」(列王記上19:4)。
・エリヤは旱魃を預言した。預言どおり3年半にわたって雨が降らず作物がとれなかった。人々は災いをもたらしたエリヤを憎んだ。旱魃はイスラエルの人々の心を変えることなく、逆に憎しみと迫害をエリヤにもたらした。彼は言う「もう十分です。疲れました。私はあなたの怒りを人々に告げました。人々は悔い改めず、逆にあなたの言葉を伝えた私を殺そうとしています。私はあなたの言葉をこれ以上伝えることは出来ません。どうか私の預言者職を解き、私に静かな死を与えてください」。主はエリヤには直接に答えず、彼にパンと水を与え、元気付けられた。
・食べて元気を回復したエリヤは荒野の中を歩き、ホレブの山に着いた。ホレブ、モーセが十戒を与えられ、イスラエルの民が神と契約を結んだシナイ山である。そこでエリヤは主に出会った。主は彼に言われた「エリヤよ、ここで何をしているのか」(19:9)。エリヤは苦しい思いを主に訴える「私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうとねらっています」(19:10)。そのエリヤに神は答えられる「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」と(19:15)。今、アハブの妻イゼベルがあなたの命を狙っているが、私はイゼベルを撃つためにアラムにハザエルを立て、イスラエルにもイエフを立てる。ハザエルはアハブ王を戦場で殺し、イエフは反乱を起こして王妃イゼベルを殺すだろう。こうしてあなたの身は守られ、あなたの職はエリシャによって継承される。主はエリヤに言われた「私はイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王記上19:18)
3.あなたに7千人を残す
・主はエリヤに「あなたに7千人を残す」と言われた。この言葉はエリヤに続く多くの伝道者に慰めを与えてきた。パウロも慰められた一人である。今日の招詞にローマ書11:3-4を選んだ。
「『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。』しかし、神は彼に何と告げているか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。」
・パウロはユダヤ人であり、同胞のユダヤ人がイエスを救い主として受け入れることを願った。しかし、ユダヤ人はイエスを受け入れず、逆にパウロを裏切り者として命を狙った。ユダヤ人は神の民であり、キリストはユダヤ人の中から起こされた。それなのに何故ユダヤ人はキリストを拒否するのか。その時、パウロは彼の宣教により悔い改めた少数のユダヤ人キリスト者を思った。なるほど多くのユダヤ人はキリストを拒否した。それにもかかわらず神は少数のものをその民としてお与えになった。神はこの少数者を使って全ユダヤ人の救いを願っておられる。バアルに跪かない人々が残されていたのだ。この言葉をいただいてパウロは元気を取り戻していく。
・これは日本においても同じである。ほとんどの日本人は「自分が神によって生かされ、養われている」とは思っていない。自分たちを養うのは給料をくれる会社や役所であり、自分たちの働きで生計を立てていると思っている。そして、神がいなくとも特に困らないと思っている。何か困難に直面した時は、神社やお寺にお参りするが、災いが過ぎれば忘れる。これは収穫が豊かであるようにバアルを拝んでいた人々と同じである。教会に来て神をあがめても病気は治らないばかりか、その病気を神が与えた試練として感謝して受け止めよと言われる。そんなところには行かない。多くの人はそう思い、教会に来ない。だから伝道集会を開いても20人しか来てくれない。しかし主は言われる「私はあなたにバアルに跪かない人を残した」。
・20人しか来てくれないとは、言い換えれば20人は来てくれたということだ。これは私たちを勇気付ける出来事ではないだろうか。もしこの20人の人が地の塩として活動すればそこに一つの動きが出る。塩は少量であっても意味を持つ。主に従う人はいつも少数であり、救いはこの少数者を通して与えられることを聖書は繰り返し記す。ここに20人の方がおられる。20人が少数であると嘆くのではなく、20人もの人がこの困難な時代に教会に集められたことを感謝したほうが良い。ここに宝があるのだ。ここにバアルに跪かない人がいるのだ。そのことを感謝したい。