1.モーセは約束の地を前にして、死んだ。
・申命記34章はモーセの死を記す。モーセは、エジプトの地で奴隷として苦しむ民を救うために立てられ、40年間の荒野の旅を経て、約束の地カナンを前にするモアブの地まで民を率いてきた。主が与えると約束された地はヨルダン川を挟んで目の前にある。しかし、モーセは約束の地に入ることは出来ず、モアブで死ぬ。「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。」(34:1)
・その山の上で、これから民に与えられる約束の地を見た(2―3節)。しかし、モーセはその地に入ることは出来ない。主はモーセに言われた(34:4)。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
・モーセは主の命令によってモアブの地で死んだ(5節)。そしてモアブの谷に葬られたが誰もその墓の場所を知らないと申命記は記す(6節)。モーセがどのように苦労して、民をここまで導いてきたのかを私たちは出エジプト記や民数記を通じてを知っている。約束の地に入る資格があるとしたら、正にモーセこそその人であるべきだと私たちは思う。そのモーセが約束の地を前にして、人間的に見れば無念の中に死んでいる。何故なのだろう。申命記の記事はそのような疑問を投げかける。
2.モーセは無念の中に死んだ。
・申命記史家はモーセが神に対して罪を犯したから、約束の地に入れないのだと理解した。申命記32:51−52はそのことを次のように記す。「あなたたち(モーセとアロン)は、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたし(主)に背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ(アロンがホル山で死んだように)、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」
・私たちは納得できない。長い人生の中にあって、誰でも一度や二度は主に背き、罪を犯す。主はそれらの罪の一つ一つを赦されないかたなのか。モーセも納得していない。彼も主に抗議を申し立てている。申命記3:23−25がそうだ。「わたしは、そのとき主に祈り求めた。・・・どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」
・しかし、主は拒否された。申命記3:26は次のように記す。「しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない』」。「もう良い、この事を二度と口にしてはいけない」。別の訳では「おまえには十分である。これ以上、このことをくどくどと私に言うな」。モーセが無念の死を迎えたことを申命記は隠さない。
・聖書はもう一つの無念の死を私たちに告げる。イエスの十字架である。イエスは十字架を前に、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈られた「御心ならば十字架の杯を私から取り除いてください」(ルカ22:42)。しかし、主はイエスの祈りを聞かれず、イエスを十字架につけられた。十字架上でイエス叫ばれた「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。福音書もまた、イエスが無念の思いで死なれたことを隠さない。何故主はモーセやイエスを無念のうちに死なせられるのか。
3.神は何故、モーセを無念のままに死なせられたのか。
・神の思いと人間の思いは異なると聖書は言う(イザヤ55:8)。人間には見えない真理が働いているのだろうか。申命記31:16-17にそのヒントがあるような気がする。主はモーセに言われている。
「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。」。主はモーセに荒野の40年を思い起こせと言われる。
―イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しみ、私に助けを求めた(出エジプト2:23)。私はその声を聞き、あなたを遣わして彼等をエジプトの地から救い出した。
―救出された民にエジプト軍が追ってくると彼らは言った「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」(出エジプト14:11)。私は葦の海を二つに分けて彼等を助け、エジプト軍を滅ぼした。
―食べ物がなくなると彼らは不平を言った「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)。私はマナを与えて彼等に食べさせた。
―マナに食べ飽きると彼らは言った「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」(民数記11:5−6)。
・私の民、あなたが40年間導いた民はこういう民だ。彼等が約束の地に入った瞬間に正しい民になると思うか。思わないだろう。主は言われる(申命記31:21)「わたしは、わたしが誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである」。主はモーセにこのように言われたかもしれない「あなたは十分に苦労した。この先あなたを待っているのは新しい幻滅と苦難だけである。これから先の苦労は若いヨシュアに任せよ。あなたは十分に働いた。私の業は民が約束の地に入った時に完成するのではなく、それもまた途中経過の一つなのだ」と。
4.私たちの旅は終らない。
・クラウス・ヴェスターマンと言う旧約学者は出エジプトの出来事を次にように要約した。
「人々は苦難の中から神に叫んだ。神はその声を聞き、助けてを送った。この仲保者を通して人々は解放された。人々は賛歌と従順をその応答とした。従順は永続しなかった。人々は神を忘れてしまった。神は審判者として歩み寄り、人々に新しい苦難を与えられる」
・わたしたちを見ても人間とはそういうものだと思う。願いが満たされれば満足するが、やがて飽き、次のものを求める。約束は果たされた時にその栄光を失う。モーセが約束の地に入ることを許されても、そこでまた新しい苦難を与えられるだけであったろう。故に神は恵みとして、モーセをこの世から取り去られた。そして後事をヨシュアに託された。
・私たちも思う。人生、この世の生は未完であって良いのではないか。私たちはこの世では約束の地を目指して旅をする。しかし、私たちの旅は死では終らない。死も途中経過の一つに過ぎない。モーセは荒野で死に、未完の生涯を終えた。そのことによってモーセは荒野に残り、民は引き続き荒野からの声を聞きつづけた。民は安住の地にありながら、モーセが荒野に残ることで、常に約束実現の前夜の緊張状態に立ち戻される。この申命記が最終的に編集されたのはモーセの時代から700年を経たバビロン捕囚の時代であると言われている。約束の地に入った民は祝福を受けてそこに王国を形成するが、やがて神から離れ、その結果国が滅ぼされる。その滅びの中で、彼等は出発点であった荒野の経験を聞きなおすためにモーセの言葉を編集した。申命記には「今日」と言う言葉が繰り返し出てくる。かって先祖たちが約束の地に入る前に聞いた言葉を、その約束の地から追放された捕囚の民が「今日」聞いている。神は何故我々を約束の地から追放されたのかを知るために。それが申命記である。モーセが何故、無念の内に死んだのか、民は痛みを覚えて振り返っている。
・最期に偉大な未完の人生を送ったもう一人の人の言葉を聞きたい。1968年4月3日にテネシー州メンフィスでキング牧師は申命記34章を説教した。彼は翌4月4日に暗殺されて39歳で死ぬ。以下はキングの最期の説教の終りの部分である。モーセの死と重ね合わせて聞いていただければと思う。
「一体これから何が起ころうとしているのか、私には分からない。ともかく、私たちの前途が多難であることは事実である。しかしそんなことは、今の私には問題ではない。なぜなら、私はすでに山の頂に登ってきたからである。従って、もう何も心配していない。私だって、ほかの人と同じように長生きしたいと思う。長寿にはそれなりの意味があるから。だが、もうそういうことも気にしていない。神の御心を全うしたいだけである。神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は皆さんと一緒にその地に到達することは出来ないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちは一つの民として、その約束の地に至ることが出来る、ということである。だから、私は今夜、幸せである。もう何も不安なことはない。私はだれも恐れてはいない。この目で、主の再臨の栄光をみたのだから。」
・私たちもまた、三千年前に神がモーセに語られた言葉を、私たちに今、ここで語られている言葉として聞く。私はこの4月から篠崎教会の牧師として働く。52歳の旅たちであり、何年の働きが許されているのか知らない。何ができるのかも知らない。篠崎教会は30年前に建てられた。その事業を引き継ぐ。そして許された時間を働いて、後事は次の人に委ねる。どのようなかたちでこの働きが終るのかは知らないが、私たちが始めた、あるいは継続していった事業は神が完成してくださる。その信仰の上に始めたいと思う。