1.宴会と断食
・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従ってきなさい」と招かれた(ルカ5:27)。マタイ福音書によれば、このレビは福音書を書いた「マタイ」とされている(マタイ9:9)。レビは取税人であった。取税人はローマのために税を徴収し、しばしば過酷に取り立てた。そのため当時のユダヤ社会では、ローマの手先あるいは不正をするものとして嫌われ、また宗教的には汚れたものとして社会から排除されていた。そのレビをイエスが弟子として招かれた。レビは招きにすぐに従った。今まで彼は、取税人であるために、社会からのけ者にされていた。その彼に預言者として評判の高いラビが声をかけてくれた、そして弟子として招いてくれた。レビは感激した。その感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために盛大な宴会を開いた。席上にはレビの同僚である取税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もいた。罪人とは律法を厳格に守らない者たちを指し、パリサイ派にとってこのような人々と交わることは身が汚れることであった。ましてや同じ食事の席につくことは考えられなかった。だから彼等はつぶやいた「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」(ルカ5:30)。「ラビ・イエス、あなたは律法の教師でありながら何故、律法を無視するのか、律法は取税人や罪人との交際を禁じているではないか」と彼等はイエスに問い質した。
・また彼らは言った「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」(ルカ5:33)。律法には断食という規定はないが、イエスの時代には週2回月曜日と木曜日に断食するのが慣習になっており、断食しないものは律法を守らない者と批判されるようになっていた。レビがイエスを招いた日はその断食日に当たっていたのだろう。「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とパリサイ人はイエスに迫った。
・それに対してイエスは答えられた「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」(ルカ5:34−35)。イエスは断食を否定されていない。しかし「今は婚礼の時ではないか、断食をするのは悲しみの時であり、今はその時ではない」と言われている。このすれ違いは「神の国」に対する理解の違いから来る。パリサイ人にとって神の国(天国)に入る人は律法を守っている人々であった。だから彼等は必死になって律法を守ろうとした。イエスにとって神の国に入る人は、イエスの招きに応える人であった。取税人としてこれまで疎外されてきたレビが、悔改めてイエスの招きに応じた。「今日はそのレビが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスは言われている。
・このすれ違いは2000年前だけではなく今日でもある。ある人々は「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考える。酒の害、煙草の害を考えると、神の宮とされた自分の体を損なうようなお酒や煙草は止めるべきだという意味で彼等は正しい。しかし自分が禁酒禁煙の人は他のクリスチャンがお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えられない。何時の間にか酒と煙草が信仰の要、律法になってしまう。そして言う「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とイエスに詰め寄ったパリサイ人と同じだ。
・ここに律法の持つ危険性がある。律法の中心の一つは「安息日を守る」ことだ。この安息日規定は出エジプトの出来事から来ている。エジプトの地において、ユダヤ人は奴隷として休みなく働かされていた。そのユダヤ人が解放されて自由になり、安息日が恵みの日として与えられた。今日の招詞は出エジプト記20:8−10で、安息日を定めた十戒の一節である。「安息日を覚えてこれを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべての業をせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんの業をもしてはならない。あなたもあなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。」
・注意して欲しいのは後半の10節である。安息の時、休息の時をあなただけでなく息子や娘や奴隷や家畜にも与えよと書いてある。安息日は仕事を休む日、喜びと楽しみの日、恵みの日だった。しかし、人間はこの恵みを掟とする事により呪いに変えてしまう。律法が与えられてしばらくすると、安息日は「命は賭けても守るべき」掟とされ、守らない者は死刑とされた(出エジプト記31:14)。イエスが否定されたのは律法そのものではない。恵みとして与えられた律法をいつのまにか「守らないと裁かれる」と変えてしまう人間の罪であった。断食にしてもそうだ。悲しみの時に断食をするのは良いことだ。しかし断食をしないと律法を破ったと言い、律法を破れば滅びると言い始めた時、断食は悪しきものになる。
2.新しい教えと旧い教え
・イエスはこのようなパリサイ人に教えるために二つの例えを話された。一つ目は「新しい布と旧い着物」の例えである。新しい布とは織ったばかりの、まだ水に通していないため縮んでいない布である。その新しい布を旧い着物に継ぐと、洗った時に新しい布は大きく縮んで旧い布を引っ張り、裂け目を大きくしてしまう。新しい着物から布をとって旧い着物に継ぐのが愚かなことをあなたたちは知っているのに、何故、何時までも旧い慣習の中で不自由な生活を送っているのかとイエスは言われている。
・二番目の例えは「新しいぶどう酒と旧い皮袋」の例えだ。パレスチナでは、ぶどう酒は山羊や羊の皮をはいで作った皮袋に入れて保存される。新しい皮袋は柔軟性があり伸縮性もあるが、旧くなると弾力性が無くなってくる。他方、新しいぶどう酒は発酵力が強く物理的に膨張しようとするから、弾力性をなくした旧い皮袋に入れると破裂してしまい、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまう。だから新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきであることはみんなが知っていた。新しい内容には新しい形式が相応しい。「パリサイ人たちよ、モーセが教えたのは神を愛することは人を愛するであるということではないか。律法とは罪人を排斥することではなく、受け入れることではないのか。取税人や罪人もまた神の子であり、彼らが悔改めて神の元に帰ってくることは喜ばしいことではないのか。今、レビが神の元に帰ってきたことはお祝いするのに価するのではないか。共に罪人の悔改めを喜び、祝宴の時を持とうではないか」とイエスはパリサイ人に呼びかけられた。
・パリサイ人はこのイエスの呼びかけに応じなかった。パリサイ人は取税人や罪人と交わるイエスを許せなかった。この不寛容がイエスを十字架にかけた。その十字架を仰ぐ私たちも今、パリサイ人と同じ過ちを犯しているかもしれない。ある教会で次のような出来事があった。その教会は宣教師によって立てられた保守的なバプテスト教会で「浸礼でないバプテスマは一切認めない」としていた。ある時、その教会に滴礼を受けた他教派の人が転会を求めた。教会では「滴礼はバプテスマとして認められないから再バプテスマを受けて欲しい」と言ったところ、転会希望者は抗議した「確かにイエスも弟子たちもヨルダン川に全身を浸してバプテスマを受けた。浸礼がバプテスマの正しい形であると思う。しかし同時に他の教派では滴礼をバプテスマの形と認め、あなたたちも他教派の人々を信仰者として認めているではないか。また、私にとって、滴礼であれバプテスマを受けたということは、新しい人生が始まった大切な出来事だ。今、再バプテスマを受けることは前に受けたバプテスマを否定することになり、納得できない」。この教会はあくまでも再バプテスマを求め、転会希望者は教会を去って行った。これは是非の判断が難しい事例だと思う。全身を水に浸す浸礼を行うという教派の伝統を大事にすることは大切だ。同時に教派の伝統を重んじるあまり、同意しない人を排除しているのも事実だ。ルカ5章を基準に考えた場合、その教会は断食をしない者は異端者だと決め付けたパリサイ人に近いのではないかと思う。
3.律法と福音
・律法と福音はどう違うのだろうか。律法は人がどう生きるべきかの指針を示す。それ自体は正しい。しかし、それはやがて掟となり、掟である以上、破った者は裁かれる。従って人々は裁かれまいとして掟を守ることに汲々とし、守らない者は否定する。律法の行き着くところは他者の排除だ。他方、福音は赦しであり、赦されたから感謝して行為する。従って行為そのものが目的化しないため、行為しないものを裁かずに受け入れることが出来る。福音の行き着くところは他者の受け入れだ。そして教会は律法ではなく福音を宣べ伝える、従って教会の本質は自分と異なる他者の排除ではなく受け入れだ。もし教会の中に審きがあれば、即ち「あなたは要らない」という言葉があれば、そこは教会ではなくなる。
・イエスはあらゆる偏見を超えて、取税人や罪人たちに声をかけられ、彼らを受け入れられた。そこから新しい食卓の交わり、教会が起こってきた。初代教会はユダヤ教正統派の目から見れば罪人の集団だった。イエスと弟子たちははパリサイ人たちに「見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」とののしられている(ルカ7:34)。イエスによって建てられた最初の教会が罪人の集団であるとすれば、今日の教会も罪人の集団であるべきだ。もし、私たちの教会が清くないと思われる人を排除し、教派の伝統を重んじない人を非難するとしたら、私たちも新しいぶどう酒を旧い皮袋に入れているのかも知れない。教会は自分が赦された罪人であることを知るから、他者をも裁かずに招くところだ。ルカ5章はそれを私たちに示している。