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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

特別集会 証しや讃美

2026年4月4日 受難日礼拝「語られなかった言葉」

投稿日:

https://youtu.be/IIzeTOxC-3U

 

聖書箇所

マルコによる福音書 15章1–5節

イザヤ書 53章7節

問いから始まる沈黙――なぜ、イエスは何も言われなかったのか

皆さん。
今日、受難日の礼拝で、私たちはとても不思議で、そして重い場面に立ち会います。

夜が明ける頃、イエスは総督ピラトの前に引き出されました。
そこは、祈りの場ではありません。
真理を探し求める静かな場所でもありません。
政治の思惑と、人々の恐れと、保身と、怒りが渦巻く、冷たい裁きの場です。

そこに立たされたイエスに向かって、人々は次々と訴えを浴びせます。
かつて群衆を教え、癒し、希望を語ったその言葉は、今や歪められ、ねじ曲げられ、罪をでっちあげるための材料として使われていました。

けれど、そのただ中で、聖書は驚くほど淡々と、こう記します。

「イエスはもはや何もお答えにならなかった。」

この一文は、とても短い。
しかし、その沈黙は、重く、深く、私たちの胸に迫ってきます。

なぜ、語らなかったのでしょうか。
無実であるなら、なぜ説明しないのか。
誤解されているなら、なぜ弁明しないのか。
自分が正しいと分かっているなら、なぜ沈黙するのか。

私たちなら、きっとそうはしないでしょう。
人は、自分が誤解されていると感じたとき、自分の尊厳が踏みにじられたと感じたとき、言葉を尽くしてでも、自分を守ろうとします。

「それは違う」
「そんなつもりじゃない」
「ちゃんと話を聞いてほしい」
そう言って、言葉を重ねるはずです。
沈黙は、怖いからです。
黙っていると、負けたように見える。
何も言わなければ、すべてを認めたように思われる。
だから私たちは、言葉で自分の正しさを証明しようとします。

けれど、その場でイエスは、語られませんでした。
怒りも、抗議も、正論も、一切、口にされなかった。

それは、言葉を失ったからではありません。
イエスは、語る力をもたない方ではありませんでした。
たとえを用いて語り、群衆の心をつかみ、弟子たちを根気強く教え続けてこられた方です。

そのイエスが、最も語るべき場面で、沈黙されたのです。

この沈黙は、失敗なのでしょうか。
敗北なのでしょうか。
それとも、恐れだったのでしょうか。

受難日は、私たちにこの問いを投げかけます。
そして、その問いを、すぐに答えで覆い隠すことを許しません。

イエスは、この沈黙の中で、力を示そうとはされませんでした。
正しさを証明しようともされませんでした。
ただ、黙って、そこに立っておられた。

今日、私たちはこの姿を、「仕方のない敗者」として眺めるのではなく、
「なぜ、この沈黙が選ばれたのか」という問いとして、自分自身に引き寄せて受け取りたいのです。

なぜ、イエスは語らなかったのか。
なぜ、言葉ではなく、沈黙を選ばれたのか。

受難日は、イエスが語った多くの言葉を思い出す日であると同時に、イエスが語らなかった言葉に向き合う日でもあります。

今日は、この語られなかった言葉に、
急いで結論を出すことなく、静かに、しかし真剣に、耳を澄ませていきたいのです。

沈黙は弱さなのか――敗北に見える十字架の前で

皆さん。
イエスの沈黙を前にして、私たちの心には、ある疑問が浮かびます。

それは、「沈黙するということは、負けることなのではないか」という問いです。

実際、この場面だけを見れば、イエスは完全に不利な立場に置かれています。
武器もなく、支持者もおらず、弟子たちの多くはすでに姿を消しています。

裁く側は権力を持ち、群衆は声を上げ、沈黙するイエスだけが、ただ立っている。

この姿は、どう見ても「勝っている姿」ではありません。
むしろ、敗北の姿に見えます。

私たちは、勝つことに慣れた時代に生きています。
声の大きい人が勝ち、説明できる人が評価され、言葉を持つ人が正しいとされる社会です。

だから、沈黙している人を見ると、
「何か言えばいいのに」
「どうして黙っているのだろう」
「反論すればいいのに」
そう思ってしまいます。

沈黙は、弱さのしるし。
沈黙は、諦めの証拠。
沈黙は、敗北の姿。

私たちは、無意識のうちに、そう考えているのかもしれません。

しかし、ここで旧約の預言者イザヤの言葉に、もう一度耳を傾けたいのです。

「彼は苦しめられたが、口を開かなかった。
屠り場に引かれていく小羊のように、
毛を刈る者の前に黙している羊のように、彼は口を開かなかった。」

この言葉は、弱々しい犠牲者の姿を描いているように見えます。
けれど、ここで語られている沈黙は、
奪われた沈黙ではありません。

選び取られた沈黙です。

羊は、吠えないから弱いのではありません。
抵抗しないから無価値なのでもありません。
それは、暴力の連鎖に加わらないという姿です。

イエスは、自分を守るために誰かを傷つく言葉を選びませんでした。
自分が助かるために、他者を裁く道を選ばれませんでした。

沈黙は、逃げではなかった。
沈黙は、敗北でもなかった。

それは、暴力に暴力で応えないという決断であり、憎しみに言葉を与えないという選択でした。

もしイエスが、ここで雄弁に語っていたらどうでしょう。
もし、論理で相手を追い詰め、正しさで敵を沈黙させていたらどうでしょう。

そのとき、十字架は「正しい人が勝った物語」になったかもしれません。
しかし、それは、
苦しむ者の救いにはならなかったでしょう。

なぜなら、私たちの多くは、
いつも正しく語れる側には立てないからです。

言葉にできない人。
うまく説明できない人。
誤解されたまま、黙って耐えている人。
声を上げる力を失った人。

イエスは、そうした人々の場所に立つために、沈黙を選ばれたのです。

この沈黙は、弱さではなく、連帯です。
敗北ではなく、愛の形です。

受難日の十字架は、力のある者が勝つ物語ではありません。
沈黙の中で、神が人間の苦しみに近づいていく物語なのです。

だからこそ、この沈黙は、私たちに問いを投げかけます。

私たちは、沈黙している人を、どう見ているだろうか。
声を失った人のそばに、立っているだろうか。
それとも、
「何も言わないのだから仕方がない」と、距離を取ってしまってはいないだろうか。

イエスの沈黙は、その問いを、今日も私たちに突きつけています。

沈黙の中にある愛――神は、痛みの前で饒舌ではなかった

皆さん。
イエスの沈黙を、弱さでも敗北でもないものとして見つめてきました。
では、その沈黙の内側には、何があったのでしょうか。

それは、空白ではありません。
そこには、深い意志があり、はっきりとした選択がありました。

イエスは、沈黙の中で、何もしていなかったのではありません。
むしろ、語ること以上に、重いことを引き受けておられたのです。

私たちは、苦しみに直面すると、説明を求めます。
「なぜ、こんなことが起きたのか」
「神はどこにいるのか」
「意味はあるのか」

そして、誰かがうまく説明してくれないと、不安になります。
答えがなければ、救われない気がしてしまう。

けれど、十字架の前で、神は多くを説明されませんでした。
長い弁明も、整った理論も、慰めの言葉さえ、ほとんど語られていません。

神は、痛みの前で、饒舌ではなかったのです。

もし、ここで神が、
「これは人類救済のためだ」
「計画の一部だ」
「やがて良い結果になる」
そう説明していたらどうでしょう。

それは、正しい説明だったかもしれません。
けれど、苦しむ人の心には、届かなかったかもしれません。

痛みのただ中にいる人にとって、説明は、時に暴力になります。
「意味がある」と言われるほど、
「分かってもらえていない」と感じることがあるからです。

だから、神は説明しなかった。
正論を語らなかった。
沈黙のまま、苦しみの中に降りてこられた。

イエスの沈黙は、愛が言葉を手放した瞬間でした。

それは、
「分かるよ」と言う代わりに、
「一緒にいる」という選択です。
「大丈夫だ」と言う代わりに、
「逃げない」という決断です。

十字架の沈黙は、神が人間の痛みに距離を取らなかった証しです。

イエスは、誤解されたまま、
裏切られたまま、見捨てられたと感じる夜を、一人で通られました。

その沈黙の中で、神は、
「人はここまで孤独になれる」
という現実を、ご自身の身で引き受けられたのです。

だから、私たちは言えるのです。
神は、私たちの苦しみを、遠くから見ている方ではない。
説明で片づける方でもない。

語られなかった言葉の代わりに、神は、共に苦しむという行為を選ばれました。

この沈黙は、何もしなかった沈黙ではありません。
愛が、言葉よりも深いところに降りていった沈黙です。

受難日の十字架は、神が「分かる」と言わなかった場所であり、
「共にいる」と示された場所なのです。

このことは、私たちの生き方をも、静かに問い返します。

私たちは、誰かの痛みに出会ったとき、すぐに言葉を探していないでしょうか。
説明し、慰め、解決しようとしていないでしょうか。

けれど、時に必要なのは、正しい言葉ではなく、逃げない沈黙です。
立ち去らないこと。
一緒にその場に立ち続けること。

イエスの沈黙は、私たちに、愛は必ずしも語られない、ということを教えています。

神は、痛みの前で、饒舌ではなかった。
その沈黙の中にこそ、最も深い愛が、確かに息づいていたのです。

沈黙の中で、神の前に立つ――語られなかった言葉が、祈りになるとき

皆さん。
ここまで、イエスの沈黙を見つめてきました。

裁きの場で語られなかった言葉。
誤解のただ中で、弁明されなかった言葉。
そして、痛みの前で、あえて手放された言葉。

その沈黙は、敗北ではなく、弱さでもなく、愛の選択であったことを、私たちは受け取ってきました。

では、この沈黙は、今日を生きる私たちに、何を残しているのでしょうか。

受難日は、何かを「理解する日」ではありません。
むしろ、理解しきれないものの前に立つ日です。

十字架は、説明されません。
沈黙のまま、そこに立ち続けています。

私たちの人生にも、説明できない痛みがあります。
言葉にできない出来事があります。
祈ろうとしても、何をどう祈ればよいのか分からない夜があります。

「なぜですか」と問う力さえ、失ってしまう時があります。

そんな時、私たちは時々、自分を責めてしまいます。
「信仰が足りないのではないか」
「ちゃんと祈れていないのではないか」
「言葉にできないのは、弱いからではないか」と。

けれど、受難日は、その考えを、静かに否定します。

なぜなら、神の子ご自身が、語らなかったからです。

イエスは、最も大切な場面で、
言葉を用いず、沈黙のまま、神の前に立たれました。

その姿は、
「語れないあなたも、ここにいてよい」
という、神からの招きでもあります。

祈りとは、うまく言葉を並べることではありません。
正しい表現を見つけることでもありません。

祈りとは、神の前に立ち続けることです。
語れなくても、答えがなくても、そのまま、そこにいることです。

今日、私たちは、多くを語らなくてよいのです。
無理に意味を見つけなくてもよいのです。

十字架の前に立ち、イエスの沈黙に、
自分の沈黙を重ねるだけでよいのです。

語られなかった言葉は、空白ではありません。
それは、神が人間の苦しみに近づいた場所です。

だから、私たちの沈黙もまた、神にとって、空白ではありません。

言葉にならない祈り。
ため息のような祈り。
ただ、うつむいて立つ祈り。

それらすべてを、神は、すでにご存じです。

受難日の礼拝は、答えを持ち帰る礼拝ではありません。
むしろ、問いを抱えたまま、沈黙と共に帰る礼拝です。

けれど、その沈黙の中で、私たちは一つのことを、確かに知ります。

神は、私たちの苦しみの外側におられる方ではない。
説明で距離を取る方でもない。

語られなかった言葉の場所で、すでに、共にいてくださる方である、ということです。

今、このひととき、私たちは、言葉を少し手放し、心を静めたいと思います。

イエスの沈黙の前で、自分の沈黙を、そのまま神に差し出すために。

語れないままでもよい。
分からないままでもよい。
ただ、ここに立つ。

その沈黙の中で、神は、確かに働いておられます。

 

 

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