1.ゲッセマネで祈る
・イエスと弟子たちは最後の晩餐の後、オリーブ山に向かわれた。山の中腹にあるゲツセマネ(油絞り)の園で祈るためだ。イエスはその場で激しい苦悶に襲われた。
-マルコ14:32-34「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず目を覚ましていなさい。』」
・私たちが驚くのは、イエスが心の動揺を弟子たちにお隠しにならなかったことだ。私たちは苦しみを人に知られまいと隠し、自分の力で何とかしようと思う。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じる。しかし、イエスは自分の苦しみをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われた。他者に対してその苦しみを見せることは、他者に自分を開くことだ。
・若い肉体は死を欲していないし、死ぬことの意味が見出せなかった。「死ぬことが本当に人々の救済になるのか」、イエスは苦闘される。「死の杯を取り去って下さい、今死ぬことの意味が理解出来ません」とイエスは祈られた。神は何の応答もされない。イエスは神の沈黙の中に、その御心を見られ、続けて祈られる「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
-マルコ14:35-36「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」
・イエスが死の苦悶をされている時、弟子たちは眠りこけている。人は自分のためであれば、徹夜で祈ることができるが、他者の苦しみや悲しみのためには徹夜できない。「心は燃えても肉体は弱い」からだ。
-マルコ14:37-39「それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』更に向こうへ行って同じ言葉で祈られた。」
・イエスが再び戻ると、弟子たちはまた眠っていた。目を覚ましてイエスの苦悩を支えてくれる弟子は一人もいなかった。そして下の方に捕り手たちの山を登ってくる火が見えた。時が来たのだ。
-マルコ14:40-41「再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたは、まだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。』」
・この物語を通して私たちは人間の弱さを見る。イエスは「死を前におののかれた」。人は言う「ソクラテスは不当な判決であるのにそれを受け入れ、毒薬を飲んで死んでいった。それなのにイエスは死を前におののくのか」。しかし私たちはイエスの弱さに慰めを覚える。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければいけない時がある。人生には多くの波風がある。その中で私たちは必死に祈るが、神が答えて下さらない時がある。どうして良いのか分からず、私たちは「もだえ苦しむ」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められる。弱さを隠されなかったからこそ、この人は私たちの友となられる。
2.イエスの逮捕と裁判
・イエスを捕える人々がユダに案内されて、集団でやって来た。ユダの指示で、捕り手はすぐイエスを捕らえた。ペトロは抵抗し、剣で捕り手の耳を切り落とした。
-マルコ14:45-47「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々はイエスに手をかけて捕らえた。居合せた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。」
・イエスは捕らえられ、弟子たちは皆イエスを捨てて逃げ去った。着衣の亜麻布を捨てて逃げ去った青年は、マルコ福音書の著者マルコの若き日の姿だと言われている。
―マルコ14:48-52「そこで、イエスは彼らに言われた。『まるで、強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえにきたのか。私は毎日、神殿の境内で一諸に教えていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。』弟子たちは皆イエスを捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。
・人々はイエスを大祭司の屋敷へ連れて行った。ペトロは、捕らえられたイエスの跡を追い、大祭司邸に来て、その中庭で召使たちに混じり、火にあたっていた。
-マルコ14:53-54「人々はイエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一諸に座って、火にあたっていた。」
・祭司長たちは、イエスに不利な証言を求めていたが、なかなか集まらなかった。埒のあかぬ裁判の進展に業を煮やした大祭司が、イエスに発言を促す。
-マルコ14:57-60「すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。『この男が「私は人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言うのを、私たちは聞きました。』しかし、この場合も彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり進み出て、イヱスに尋ねた。『何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』」
・沈黙を続けるイエスに、大祭司は「お前は神の子か」と問いかけた。イエスは「そうだ」と答えられた。
-マルコ14:61-62「しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前は褒むべき方の子、メシアなのか』と言った。イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。』」
・このイエスの答えが断罪の証拠になった。大祭司は衣を裂いて怒り、イエスに死刑を宣言した。
-マルコ14:63-65「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は死刑に処すべきだと決議した。ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをして、こぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた」。
3.ペトロ、イエスを知らないと言う
・ペトロが大祭司邸の中庭にいた時、女中が彼を「イエスの仲間だ」と指さした。ペテロは否定した。
-マルコ14:66-68「ペトロが下の中庭にいた時、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火に当たっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一諸にいた。』しかし、ペトロは打ち消して、『あなたが何のことを言っているのか。私には分からないし、見当もつかない』と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。」
・ペトロは他の人たちからもイエスの仲間だと指摘され、激しく否定した。すると鶏が再び鳴いた。ペトロは「あなたは私を裏切るだろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、激しく泣いた。
-マルコ14:69-72「女中はペトロを見て、周りの人々に、『この人は、あの人たちの仲間です』とまた言いだした。ペトロは再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。『確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。』すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた。すると、すぐ鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。」
・ペトロの裏切は四福音書全てが書く。この出来事は「人は弱さを通じて信仰を与えられる」ことを示す。信仰は人の意志では貫徹できない。信仰は、心が砕かれ、復活の主に出会った時、恵みとして与えられる。イエスの死後、弟子たちもまた裁判にかけられるが、今回彼らは逃げなかった。聖書はペトロが復活のイエスに出会って変えられたからだと語る。ペトロたちは釈放されると、仲間が待つ所に帰り、共に祈る。
-使徒4:29「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。
・初代教会の人々は「神はイエスを通してご自身を啓示して下さった。人はイエスを通して神に出会うことができる」と信じた。私たちもそう信じる。しかし現代の多くの人は神を信じることが出来なくなった。C.S.ルイスは「被告席に立つ神」の中で語る。
「古代人は鋭い罪意識を持ち、被告人が裁判官に近づくように神に近づいていった。しかし現代人は罪の意識を持たずに自分が裁判官となり、神が被告席につく」。
現代人は語る「もし神がいるならば、600万人がアウシュビッツで殺された時、なぜ神は何もしなかったのか」、「もし神がいるなら3.11の大津波で2万人の人が溺れ死ぬのを、なぜ放置されたのか」、「もし神がいるなら、本当にいるのならば、それを証明して見せよ」。現代人は神を被告席に立たせ、裁いている。その人々に私たちは福音を伝える。