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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年3月27日聖書教育の学び(2002年10月13日説教、マルコ14:66-72、「ペテロの裏切り、聖書に見る人生の危機とその克服」)

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1.ペテロの裏切りを何故、全ての福音書が書くのか

 

・ペテロはイエスの12弟子の筆頭であり、教会の創立者だ。聖書はイエスがペテロに「あなたの上に教会を立て、あなたに天国の鍵の鍵を授ける」と言われたと記す(マタイ16:18-19)。カトリック教会は初代の教皇はペテロであると主張し、ローマ法王庁(バチカン)のある所にはサン・ピエトロ教会(聖ペテロ教会)が立つ。ペテロは初代キリスト教会の中心的人物だ。そのペテロが、イエスが捕えられ裁判を受けている時、イエスを三度知らないと否認したと聖書は伝える。しかも四つの福音書は全て、ペテロがどのようにしてイエスを裏切るに到ったかを詳細に書く。何故、聖書はかくも都合の悪いこと、人間的に見れば隠しておきたいことを、このようにあからさまに書くのだろうか。一つの疑問である。

・また、ペテロはこの人こそはメシア、救い主と思い、イエスに従って来た。そのペテロが一番大事な時、十字架の時にイエスを裏切った。イエスを三度否認した時、彼の心の中には自分はとんでもないことをしてしまった、もう終わりだという悔いと絶望が残ったであろう。そのペテロが挫折からどのようにして立ち直り、教会の創立者と言われるほどのものになったのかを私たちは知りたい。今日はペテロがどのようにして挫折し、そこからどのようにして回復してきたのか、そしてそれが私たちにどのように関係して来るのかを、ご一緒に考えて見たい。

 

2.ペテロの挫折

 

・イエスがゲッセマネの園で捕えられた時、弟子たちはみな逃げてしまった。ペテロも逃げたがイエスのことが気にかかり、「遠くからイエスについて行った」(マルコ14:54)。ペテロは「イエスについて行った」、それはイエスを愛していたからである。「遠くから」、自分が捕えられるのを恐れていたからである。彼は明らかに動揺している。彼は大祭司の邸の中庭まで入り込み、人々が火にあたりながらイエスの裁判を見守っている所まで行った。ペテロは目立たないように身を潜めて、イエスの様子をうかがっていた。その身を潜めているペテロに対して、大祭司の女中の一人が「あなたもナザレ人イエスと一緒にいた」と言った。ペテロは予想もしない所からの指摘にあわてた。彼は本能的に自分を守るために「私は知らない」と言った、最初の否認である。ペテロは臆病ではない。イエスが捕えられた時、彼は剣をもって相手に立ち向かっていった。他の弟子たちが逃げ去っていった中で、危険を冒して大祭司の邸まで来た。そのペテロの勇気がこの女中の一言で吹き飛んでしまった。私たちも心が動揺し、頭の中が真っ白になり、自分が何をしているのかわからなくなる時がある。この時のペテロがそうであった。

・女中に指摘されて、身の危険を感じたペテロは、人々の目を逃れるために出口の方へ身を寄せた。いつでも逃げられるようにである。女中はそのペテロを見つめ、「やっぱり彼はナザレ人の仲間だ」とそばの人々に言った。ペテロは自分に言われているわけでもないのに、重ねて否定した、二回目の否認である。女中に言われた人たちがペテロを見て言った「確かにあなたも仲間だ。あなたの言葉にはガリラヤのなまりがある」。ペテロは呪いの言葉を吐きながらそれを否定した「私は何も知らない。もし私の言っていることが偽りであるならば私は呪われても良い」。三度目の否認である。否認のたびにその調子は激しくなる。嘘はどんどん拡大していく。

・その時、鶏が鳴いた。その鳴き声でペテロは初めて我に帰った。そしてイエスが言われた言葉を思い出した。「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」(マルコ14:30)と。ペテロはいまや全く自信も信仰も無くなり、外に出て泣いた(マルコ14:72)。ペテロはイエスと一緒に死ぬはずだった、でも死ねなかった。その自責と後悔の念がペテロに涙をもたらした。

・ペテロはイエスを裏切った。その裏切り、挫折を通してペテロが砕かれ、何も無くなり、ただイエスの言葉だけが残った。イエスはペテロが裏切ることを予告された時、同時に言われた「あなたがたは皆、私につまずくであろう。・・・しかし私は、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」(マルコ14:27-28)。つまずきと同時に許しが宣告されている。鶏の鳴き声は朝を告げている。

・ペテロがイエスを知らないと嘘をついたように、人間はいつも嘘をつく。人間は他人の目を気にしながら生きている。他人が自分をどう見ているか、そのことで人間は幸せになったり不幸になったりする。人から拒絶されたくないばかりに、あるいは人から良く見られようとして自分を偽る。そこに人間の弱さがあるという事実を見つめよと聖書は言う。聖書はペテロの弱さを否定しない。むしろこの弱さを認めることによって、本当に強い人間になれると主張する。自分のしたことは間違っていた、自分がイエスを十字架につけた、この悔改めをした時に、ペテロの上にイエスの言葉がよみがえる「私はあなた方より先にガリラヤに行く、そこで待っている」。

・イエスは全てをご存知である。私たちがいざと言う時には最も大事なものさえ裏切る存在であることもご存知である。イエスが全てをご存知であれば、私たちはもう偽装する必要はない。嘘をつくことも自分を良く見せることも無い。罪あるままで赦されたのであるから、もう自分を正当化するために死ぬことも不要であり、全てを無かったことのように忘れ去る必要も無い。何よりも、私たちがイエスを捨ててもイエスは私たちを捨てられない。この赦しによって回復は始まる。

 

3.ペテロの復活

 

・イエスが捕えられた時、弟子たちは逃げた。イエスが死なれた以上、エルサレムにいても仕方が無い。彼らは故郷のガリラヤに帰った。ヨハネ福音書に依れば、ペテロや他の弟子たちはガリラヤに戻り、そこで元の仕事の漁師に戻ったとある。そこに復活のイエスが現れた。イエスはペテロが裏切ったことを一言も責められない。ただペテロに「私を愛するか」と三度聞かれた。そして「主よ、私があなたを愛しているのはあなたがご存知です」とのペテロの言葉を聞かれて「私の羊を飼いなさい」と言われた。何故、三度聞かれたのか、ペテロが三度イエスを知らないと否認したからである。三度目の時にペテロは悲しんでいった「主よ、あなたは全てをご存知です」。「あなたは私の弱さを知っておられる、私はかってあなたを裏切った、これからも裏切るかも知れない。それにもかかわらず、私がどんなにあなたを大切に思っているかをあなたはご存知です」。

・この復活のイエスと出会い、自分が犯した罪を赦されたこと、罪を犯した自分に教会が委ねられた事を知った時、ペテロは生れ変った。やがてペテロは教会の指導者として立ち「イエスは復活された。私たちはその証人である」と宣教を続けた。イエスを殺した大祭司はペテロに「もしイエスの名を宣教し続けるならばおまえも殺す」と脅した。その時ペテロは、「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜んだ」(使徒5:41)とある。大祭司の女中の言葉に怯えたペテロが、今、大祭司の前でイエスは「わが主」と告白するほどの者にされた。

・ペテロはローマで死んだと言われている。伝承に依れば、ネロ皇帝のキリスト教徒迫害が起きた時、ペテロはローマにいた。弟子たちはローマから逃れることをペテロに勧め、ペテロはローマを後にしたが、その途上でイエスに出会う。ペテロはイエスに尋ねる「クオ・バデス・ドミネ」、ラテン語で「主よ、何処に」という意味である。そのペテロに対してイエスは言われる「おまえが私の民をおいて去るならば、私は再び十字架にかけられる為にローマに行くであろう」。この言葉を聞いてペテロはローマに戻り、十字架につけられて殉教して死んでいった(シンケヴィッチ作「クオ・バデス」岩波文庫)。そのペテロの殉教したと伝えられる地にサン・ピエトロ教会(今日のバチカン)が建てられており、教会の扉には逆さ十字架につけられたペテロが彫り込まれている。ペテロは最期まで弱い人間であった。しかし、自らの弱さを知り、主を求めた。そして主によって強くされた。

・今日の招詞に第二コリント7:10を選んだ。

「神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」。人生はある意味で苦難の連続である。ある人は事業の失敗という形で苦難を受けるだろう。ある人は家族の突然の死や病気、離婚で苦しむ人もいるし、不治の病にかかるという苦難を受ける人もいる。パウロがコリント人への第二の手紙の中で述べているのは、その苦難を神が私たちに与えてくださった試練として受け止める時に、その苦難は人を救いに導き、その苦難を人生の呪いとして受け止める時に、苦難は人を滅ぼすということだ。私たちは神がおられ、その神が人を愛されていると信じる。全ての出来事は、例え現在は苦難としか考えることの出来ない事柄をも、私たちに最善のものとして与えられていると信じる。その時、外的情況は変らなくても苦難が祝福になっていく。それが神から与えられる平安である。ペテロは躓いて泣いた。その涙を通して赦しが与えられた。その時、ペテロの躓きは祝福に変る。聖書がペテロの躓きを隠すことなく語るのは、それが恥ではなく祝福と受け止めるからだ。

・聖書はペテロがイエスを三度否認したことを何故、こんなに詳しく知っているのだろうか。大祭司の庭にはペテロしかいなかった。この福音書を書いたマルコはペテロの弟子であり、ペテロはマルコに対し自分の経験を繰り返し語ったのであろう。「私はイエスを傷つけた。私はイエスを失望させた。それでもなおイエスは私を愛し、赦してくださった。イエスはあなた方にも同じ様にしてくださるのだ」と。その結果が今日の記事である。人は弱い、過ちを犯す、しかし神はその過ちを責められない。自分が弱いことを認め、その弱さをも神が受け入れ、赦してくださる事を知る時に、人は挫折から立ち直ることが出来ることをペテロの経験は私たちに教える。

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