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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年4月10日聖書教育の学び(2017年9月13日祈祷会、マルコ15:33-47、イエスの死と埋葬)

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1.イエスの死

 

・昼の十二時になると、「全地が暗くなった」とマルコは伝える。アモス8:9-10の預言が成就したと彼は理解する。イエスは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばれたが、これは詩編22:1からの引用だ。

―マルコ15:33-35「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言う者がいた。」

・イエスの最後の言葉「わが神、わが神、どうして私を捨てられたのか」は、初代教会の人々に大きな衝撃を与えた。「神の子が何故絶望の叫びを挙げて死んでいかれたのか」、弟子たちはイエスの言葉を理解できなかった。そのような思いがこの叫びを、イエスが詩篇22篇冒頭の言葉を語られたのだという理解に導く。マタイはイエスの叫びをヘブル語に修正する「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)。ヘブル語で書かれた詩篇の言葉に近づけるためであろう。詩篇22篇は4節からは讃美に転じており、イエスは神を賛美して死んでいかれたのだという理解だ。しかし、引用句自体が絶望の叫びであることは否定出来ない事実である。

・ルカは、イエスが死を前にこのような絶望の叫びをされるはずがないという視点から言葉を削除し、「父よ、私の霊を御手に委ねます」(23:46)という従順の言葉に変えた。ヨハネはイエスの十字架死は贖いのためであったと理解し、最後の言葉を「成し遂げられた」(19:30)という言葉にする。それぞれの福音書記者の信仰によって、イエスの最後の言葉の修正が加えられていった。私たちはどれが正しい最後の言葉であったかは知らない。しかし、「わが神、わが神、どうして私を捨てられたのか」という言葉ほど、インパクトを持つ叫びはない。

・マルコは、イエスが大声をあげて息を引き取った時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたと記す。神殿の垂れ幕は聖所と至聖所を隔てる幕であり、至聖所は年に一回大祭司が入り、罪の贖いのために動物の犠牲を捧げる場所だ。その幕が裂けたことは神と人との隔てが取り除かれたことを意味している。

―マルコ15:36-38「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

・一部始終を見ていた百人隊長は、「本当にこの人は神の子だった」と語ったとマルコは伝える。

―マルコ15:39「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

・男の弟子たちはすべて逃げ去り,遠巻きながら付き従ったのは女性たちだけだった。

―マルコ15:40-41「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そして、サロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従って来て世話をした人々である。なお、そのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。」

 

2.イエスの埋葬

 

・夕方になった。有力な議員であったアリマタヤのヨセフが、ピラトにイエスの遺体引き取りを願い出た。―マルコ15:42-43「既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるよう願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」

・イエスの死を聞いたピラトは、あまりにも早いイエスの死に驚いた。ピラトは百人隊長を呼び、イエスの死を確認してから、遺体をヨセフに下げ渡した。

―マルコ15:44-45「ピラトは、もうイエスが死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼びよせて、既に死んだかどうか尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。」

・イエスの遺体を引き取ったヨセフは遺体を亜麻布で包み、新しく造った墓に葬った。マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスが墓に葬られるまでの一部始終を見つめていた。

―マルコ15:46-47「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」

・イエスの遺体を埋葬したアリマタヤのヨセフの記録は少ない。福音書では、「金持ちでイエスの弟子になっていた」(マタイ27:57)、『有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいる人であった』(マルコ15:43)、「議員の一人で立派な正しい人であった。彼はアリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた」(ルカ23:50-51)、「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ19:38)と記述される。彼の名は四つの福音書全てに記されている。

 

3.イエスの十字架の意味を考える

 

・イエスは十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで、息を引き取られた。この叫びは詩篇22編冒頭の言葉だ。弟子たちは「イエスこそメシア、救い主」と信じてきたのに、そのメシアが無力にも十字架につけられ、十字架上で絶望の言葉を残して死なれたことを理解できなかった。「この方は本当にメシアだったのか、メシアが何故絶望して死んでいかれたのか」、弟子たちは詩篇22編を通してイエスの死の意味を探していく。

・詩篇22編にはイエスの受難を預言する言葉が満ちている。福音書にある人々の嘲笑の言葉も詩篇22編からの引用だ「私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」(マルコ15:31-32,詩編22:8-9)。ローマの兵士たちはイエスの服をくじで分けるが(マルコ15:24)、その光景も詩篇22編の引用だ「犬どもが私を取り囲み、さいなむ者が群がって私を囲み、獅子のように私の手足を砕き・・・私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22:17-19)。最後に詩人は歌う「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください。私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。私の魂を剣から救い出し、私の身を犬どもから救い出してください」(詩篇22:20-21)。詩編の言葉の中にイエスの死の意味が示されているとマルコは理解した。

・神学者モルトマンは説教集「無力の力強さ」の中で語る「イエスはなぜ『わが神、どうして、どうして』と叫びながら死んでいかれたのか。なぜ神はイエスを見捨てたのか。キリスト教神学はこの問いに対して多くの答えを展開してきた・・・多くの贖罪論が展開されたが、どれも適切ではないと思える。『わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』という問いに対する唯一つの満足いく答えは『復活』である」。

・モルトマンは続ける「キリスト教信仰の中心にはキリストの受難史が立っている。この受難の中心には、神に見捨てられ、神に呪われたキリストの神経験が立っている。私にとってはこれこそ真の希望のはじまりである。何故ならばそれは死を後ろに追いやり、もはや地獄を恐れる必要のない、新しい生の始まりなのである。人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に預からせて下さる。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのである」。

・カトリックの思想家シモーヌ・ヴェーユも語る「十字架上での断末魔の苦悶は復活よりもいっそう神的であり、この苦悶こそがキリストの神性が収斂する一点である」。イエスが十字架上で苦悶されたからこそ、イエスは私たちの救い主たりうると思える。

・イエスは人に棄てられ、神に捨てられ、絶望の中に死んで行かれた。イエスが十字架にかけられた時、人々はイエスを嘲笑した。しかし、イエスが息を引き取られた後では嘲笑は消え、その代わりに思いがけない出来事が起きる。マルコはイエスの十字架刑を指揮していたローマ軍の百人隊長が「本当にこの人は神の子であった」と告白したと記す(15:39)。ローマでは皇帝が「神の子」と呼ばれていた。しかし、ローマ帝国を代表してその場にいた百人隊長が、皇帝ではなく、皇帝の名によって処刑されたイエスを「神の子」と呼んでいる。状況から考えると、これは奇跡としかいいようのない言葉だ。

・秋田大学の持田行雄氏は述べる「ユダヤ人が求めたのはしるし=奇跡である。彼らは十字から降りてみよ、そうすれば信じようと言ったが、イエスは降りられなかった。そのためユダヤ人はつまずいた。ギリシア人が求めるのは知恵=合理性だった。神の子であるならば、十字架から降りることが出来るのに降りないとしたら愚かだと。だからギリシア人もつまずいた。しかしパウロは十字架につけられたまま、降りて来なかったキリストを宣べ伝える。降りて来なかった、そこにこそ十字架の奇跡がある。何故ならば奇跡から信仰が始まるのではなく、信仰から奇跡が始まるのである」(持田行雄「キリスト教倫理の信仰的根拠」)。

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