- マリアに臨んだ困難
・クリスマスを前にした主日に、マリアへの受胎告知の聖書箇所を与えられました。先週土曜日のチャペルコンサートでこの場面をお話したばかりですが、今日は違う視点から考えてみます。私たちは「受胎告知」と言いますと、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」の絵を思い浮かべ、ロマンチックな光景を想像しますが、実際の場面はかなり深刻です。それはマリアの言葉に表れています「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。未婚のマリアに妊娠が告げられました。女性にとって子を産むことは祝福ですが、未婚の女性が子を生むことは様々な社会的困難を招きます。何故神はこのような形で御子を世に送ることを決断されたのでしょうか。
・ルカは天使ガブリエルがナザレ村のマリアのもとを訪れて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)と言う挨拶をしたところから物語を始めます。マリアは驚きます「何がおめでたいのか、何が起こっているのか」わからないからです。その彼女に天使は伝えます「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。マリアはヨセフと婚約していますが、まだ結婚はしていません。その未婚のマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられます。マリアはこの知らせを聞いて「戸惑った」とルカは記します(1:29)。
・ヨセフはこの妊娠に何も関わっていません。婚約中の女性が婚約相手以外の子を妊娠する、それは人の眼からみれば不倫を犯したことになります。「戸惑わざるを得ない」出来事です。現に婚約者ヨセフもそう思い、マリアを密かに離別しようとします(マタイ1:18-19)。彼女は天使に抗議します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。口語訳は「私にはまだ夫がありませんのに」と訳します。夫なしに子を産む、社会の差別と偏見の中で身ごもることは現在でも大変なことです。日本の人工妊娠中絶件数が年間24万件もあることは、婚外妊娠が困難な出来事であることを示しています。当時はもっと大変でした。当時の律法は不倫を犯した者は姦通罪として石打の刑にすると定めていました(申命記22:23-24)。彼女は解決のつかない困難を与えられたのです。それにもかかわらず、天使はマリアに伝えます「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる・・・神に出来ないことは何一つない」(1:35-37)。マリアはためらいました。長い沈黙があったことでしょう。そして彼女は答えます「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)。
- 「聖霊による誕生」をどのように受け入れていくか
・イエスの誕生の次第は多くの人々に困惑を与えました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げます。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」という風に父の系図が続きますが、イエスについては次のように語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:18)。父の系図が突然母系に変わっています。またルカ福音書もイエスの系図を掲げますが、その中で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と語ります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。それは「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。つまり、マタイもルカもさらにマルコもイエスがヨセフの実子ではない、イエスはマリアの婚外妊娠によって生まれられたことを隠しません。この婚外妊娠をどのように受け止めるのかが福音書記者に課せられた課題の一つでした。
・当時のヘレニズム・ローマ世界では、偉人や英雄の誕生に関して、「神による妊娠」や「処女降誕」といった考え方がありました。偉人や英雄は世の常ならざる仕方で生まれると当時の人々は考えたのです。ギリシア帝国を創り上げたアレキサンダーやローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスも処女から生まれたという伝承があります。イエスも神の子であれば、それにふさわしい形で生まれられたであろうと人々が思うのは当然で、この伝承が福音書に中に取り込まれていったことは想像できます。歴史上のイエスを知らない福音書記者たちはイエスの処女降誕を当然のこととして受け入れていったのでしょう(イエスが生まれられたのが紀元前4年頃、マルコ福音書が書かれたのが紀元70年前後、マタイやルカが福音書を書いたのは80~90年頃と言われています)。
・また、キリスト教が分離していった母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。紀元3世紀にキリスト教教父オリゲネスは「ケルソス駁論」という書物を著しました。反駁の対象とされたケルソスはギリシアの哲学者ですが、ユダヤ人から聞いた話として、「聖霊によるイエスの出産(マリアの処女懐胎)というキリスト教の主張は、婚外妊娠という事実を隠すための虚偽にすぎない」と批判しています。このような批判に対して、三世紀頃から「イエスは処女降誕によって生まれられた。イエスは人の罪を贖うために無原罪(原罪を継承する人間の父親からではなく)で生まれられた」という護教的な神学が生まれ、それが教会の信仰として継承されていったと考えられています。今でも多くの教会が用いている使徒信条では「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白します。
・私たちはこの処女降誕物語を伝承として受けとめます。歴史的には確認できないという意味での伝承です。ではこの物語が伝承に過ぎなければ、ルカ1章の物語は意味がないのでしょうか。そうではありません。ルカが伝えたいことは、マリアが処女降誕によってイエスを生んだことではなく、婚外出産という困難を与えられながら、それを信仰を持って受け入れていったことです。マリアの示した信仰の従順こそがルカの大事なメッセージです。聖書は人間を通して書かれた神の書です。人間を通して書かれたゆえに、著者の生きた時代の制約を受けます。しかし神の書であるゆえに、時代を超えた真理を示します。その真理とは「神にできないことはない」(1:37)という言葉です。マリアは信じがたい言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。そこから偉大な物語が始まったのです。「神がなされるのであれば、そこから出てくるすべての問題も神が解決してくださる」、彼女はそれを信じた。ルカはその信仰の決断をここに示しているのです。
- 御心のままに
・同じく信仰の決断が主題になっているのが、曽野綾子の小説「哀歌」です。アフリカ・ルワンダに赴任した一人の修道女の物語です。主人公の鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任します。彼女は、教会や学校を併設する修道院で、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をします。ところがルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の少数民族ツチ族に対する集団虐殺が始まります。フツ族民兵は軍を後ろ盾にツチ族への暴行、虐殺、略奪を開始し、避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くします。その混乱の中で修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、そのことが原因で妊娠します。彼女は身も心も疲れて日本に帰国しますが、修道会は妊娠した修道女に冷淡で、春菜はどうしてよいかわかりません。
・春菜は、最初は妊娠中絶を考えます。中絶すれば、「何事も無かった」ように生きていくことが出来ます。他方、子を中絶しない場合、生まれる子は「皮膚の色が黒い子」となり、そのような混血児を抱えて日本社会で生きていくことは大変なことです。しかし相談した神父の言葉、「神は御自分で為されたことには、必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」という信仰が春菜の気持ちを変えていきます。「神は私にこの子を与えて下さった、それが納得できない形で与えられたにせよ、この子と共に暮らそう、そのことによって不利益を受けるのであれば受けていこう」と彼女は決意します。
・神父の言葉を契機に、考えの中心点が自己から他者(この場合はおなかの子)に変えられていきます。彼女の決断はこの世の基準では愚かな決断になるでしょう。しかし信仰の決断としては別の評価が成立します。彼女はおなかの子を、自分に与えられたものとして生きていくことを決意したのです。そのことによって不利益を受ける=現在の自分に死ぬことは、無意味なことではありません。イエスは言われました「私は命を、再び受けるために、捨てる」(ヨハネ10:17)。現在に死ぬことは将来に生きるためです。イエスは十字架を通して、現在を死ぬことを通して、復活されました。イエスは十字架で死ぬために、クリスマスにこの世に来られた、その死により私たちに命が与えられた、それがクリスマスのメッセージです。私たちも与えられた十字架を担って死ぬことにより、新しい命に生きる者と変えられます。今日一人の姉妹が信仰告白をしてバプテスマを受けられます。姉妹は一度死ぬためにバプテストリーの水に全身を入れられます。そして新しく生まれるために水から引き起こされます。バプテスマは十字架と復活を象徴する儀式なのです。
・今日の招詞にヨブ記36:15を選びました。次のような言葉です「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる」。マリアに与えられた道は困難な道でした。しかし、戸惑いながらも彼女は答えます「お言葉どおり、この身に成りますように」。婚約者ヨセフは当初マリアを離別しようと思いますが、マリアの罪ではないことを知り、やがて彼女を妻として受け入れ、子を自分の息子として認知します。ルカ1章後半に「マリアの賛歌」がありますが、その47-48節で彼女は歌います「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。岩波訳聖書で佐藤研氏はそれを次のように訳します「私の心は私の救い主なる神を喜びます。そのはしための悲惨を顧みて下さったからです」。「はしための悲惨を顧みて下さった」、婚約者ヨセフが受入れてくれた喜びをマリアは歌ったと佐藤氏はここに見ます。
・私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止めていった時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる経験を私たちはします。「お言葉どおり、この身に成りますように(御心のままに)」とは、幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にあることを信じて、その現実を受入れることです。救いはそこから始まります。「思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことであ る。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない」(飯嶋和一著「出星前夜」p212から)。「御心のままに」、今日はこの言葉をクリスマスの福音として共に聞きたいと願います。